パチンコぼろ負け論
突然だけど「人生は死ぬまでの暇つぶし」ってなかなか的を得た言葉だと思う。
暇つぶしって言うのは、ある時刻までの時間をなるべく退屈を感じることなく消費しようとする行為のことだ。
僕たちは退屈な時間が嫌いだ。
それは時間が長く感じるからだ。
暇つぶしとは時間を短く感じたいがための行為だ。
僕たちは本質的に時間を短く感じたい生き物なんだと思う。
だってみんな楽しい事をしたいって言うけど、楽しい事をしているとすぐ時間が過ぎるでしょ。
それは結局は時間を短く感じるための行為って考えることもできる。
僕たちは人生を無意識のうちに途方も無い退屈な時間と捉えているのかも知れない。
だからみんな手を変え品を変え、退屈に負けないように、いろんなことにチャレンジしたり、好きな音楽や映画で気持ちをあやしたり、この人と一緒にいると時間があっという間だなぁって感じる人と一緒にいることを望んだりする。
時間はひたすらに死に向かって進み続けるのに、時間を短く感じるように努める僕たちにとって、人生は死ぬまでの暇つぶし説は否定しようがない気がする。
そんな暇つぶしの人生でも、もしもこの瞬間がいつまでも続けばいいと思えるような瞬間に出会うことができたら。
その瞬間だけは唯一、暇つぶしという大前提から解放され、退屈というフィルターを外すことができて、本当の意味での真っさらな時間を体感できるように思える。
本来、時間というものは退屈でも楽しいものでも美しいものでもない。
無味無臭、無益無害のただの瞬間の連続が時間なのだ。
僕たちが今感じている時間はおそらく、時間というものを正しく捉えられてはいないだろう。
早く過ぎろとか、退屈だとか、時間を流れとしてとらえるのではなく、今、この瞬間のこの時間の一瞬を掴むことが時間を正しく捉えるということではないだろうか。
流れていく時間ではどうしたって余計な退屈フィルターがかかってしまう。
もし人生に意味を求めるなら、永遠に続けばいいと思える瞬間の真っさらな時間で感じたことが僕たちの本当の人生の意味なのではないだろうか。
富士山のてっぺんから景色を見たって、それが曇り空じゃ本当の景色を見たとは言えないのと同じで、人生の意味を考えてみたって、退屈フィルターがかかっていたら本当の人生の意味なんて分からないんだ。
上手く伝わるだろうか。
僕は文章を書く力がないと思っているのでいつも伝えたいことが正しく伝わっているか不安になる。
人と話しているとあんまり伝えたいことってないよなって思うけど、一人で文章を書いていると伝えたいことだらけだなって思う。
なんかバンプの歌詞みたいだな。
ここから急にパチンコの話になるので興味ない人は読まない方がいいです。
そんなことを先週パチンコでぼろ負けした夜に考えました。
僕は別にパチンコ好きじゃない。
実際に1年ぶりだったし。
なぜパチンコに行ったかというとめちゃくちゃ暇だったから。
本も読み飽きたし、ゲオまで行くのも面倒だったから、退屈に耐えかねて近所のパチンコ屋に行った。
3時間くらいいて予定通り3000円負けた。
僕は3時間の暇を潰すために3000円を払ったのである。
僕の周りにもパチンコに通う人は結構いるんだけど、彼らの共通点は無趣味ということだ。
趣味がないということは自分で暇を潰せないということ。
パチンコはお金を払って暇をつぶす行為だ。
パチンコが趣味って人もいるかも知れないけど、僕の知る限りパチンコが趣味な人はパチンコ以外の趣味を持っていない気がする。
多趣味な人の1つの趣味としてパチンコってパターンは聞いたことがない。
だってパチンコって暇つぶしとしては圧倒的にコスパが悪いもん。
他のコスパが良い暇つぶしを知っていたらパチンコなんてしないと思う。
とか考えてたら結局、人生について考え始めていました。
前半は結構いい事を書いたつもりだったのにパチンコの話で終わるのは完全に書く順序を間違えたと思います。
パチンコで一番大事なのはやめ時を見極めることです。
この文章もここらで終わっといた方がいい気がするので終わります。
水の様に優しく 花の様に劇しく
震える 刃で 貫いて
宿命られた 涙を瞳の奥 閉じても
貴方を 瞼が 憶えているの