ズルしても真面目にも生きてゆける気がしたよ
昨日の夜から今日の夜にかけて高校の部活仲間数人と少し遠出して遊んだ。
全員とはいかなかったけど久しぶりにまとまった人数で集まることができた。
僕は以前どこかの記事でユーモアを働かして楽しみを見つけるのが好きって書いたと思う。
その考え方みたいなものは間違いなく高校生の時に部活仲間たちと築き上げたものだ。
高校を卒業してから4年が経とうとしているけどみんなその精神は変わっていないようで本当に楽しかった。
彼ら以上に楽しむことについて真剣な人たちを僕は知らない。
当時の僕たちは酒も車も、お金も必要とせずに楽しいことをたくさんしてきた。
楽しむことを楽しむことに必死だった。
自分たちで考えたオリジナルのゲームが数種類あったし、高校の最寄りのスーパーは最高の遊び場だったし、食べ物で遊ぶのも大好きだった。
ああでもない、こうでもないと頭をひねって楽しいことを探すのが最高に楽しかった。
楽しむことを楽しむってのはそういうことだ。
単純にする楽しさ、何かをバカにする楽しさ、へり下る楽しさ、近道する楽しさ、遠回りする楽しさ、繰り返す楽しさ、足し引きの楽しさ。
すべて彼らと共に学んできた。
大学に入ってからできた友達とは酒飲んだり車に乗ったりお金使ったりと、楽しさの種類は増えたけど以前のように楽しむことを楽しむことはなくなってしまった。
久しぶりの彼らにあって本当に楽しかった。
23時、キャンピングカーをレンタルして海へ向かった。
移動中のBGMにスピッツの『青い車』という曲がぴったりだと思った僕はCDを持っていた。
もう1人同じCDを持ってきていて、ひとしきり笑った後に考えることは同じだなって思った。
途中で食料品を買うためにスーパーに寄った。
生の鮎が売られていたから、焚き火を起こして焼いて食べようって話になった。
バーベキューじゃないんだから上手く焼けるわけないんだけど僕らにとっては美味しく食べられるかどうかなんてどうでもよくて、鮎で遊んだら楽しそうだなって思いついただけだった。
だいたい3時間くらいで目的地に着いた。
僕らは火を起こして焚き火をした。
焚き火を囲んで、星を見上げて、鮎に割り箸突っ込んで焚き火の周りに刺してみたり、僕らは朝日が昇るまで砂浜で遊びまくった。
鮎は意外と美味しく焼きあがった。
後から気づいたんだけどその砂浜は世界文化遺産に登録されているらしい。
それに気がついた僕らは世界文化遺産で鮎焼いて食べたという自分たちのならず者っぷりに大はしゃぎしていた。
朝日が昇ってくると、太陽と空と海の景色を見て、その景色はいったい何色なのかってことを話し合った。
朝日が登り切るとすることがなくなったので僕たちはキャンピングカーに戻ってホットケーキを焼くことにした。
買い物の時にただ焼くだけじゃ面白くないなって思って青色の食紅を買い物カゴに放り込んだ。
女の子たちがヘラヘラしながら生地に食紅を混ぜて青色のホットケーキが出来上がった。
粘土みたいな見た目になって全く美味しそうじゃなかった。
僕たちは大袈裟なくらい不味そうに食べて、たくさんたくさん笑った。
来年からサラリーマンになる人 、教師になる人、留年して卒業できない人、大学院に行く人、バンドマンになる人、海外に行ってしまう人
高校を卒業してから大学に進学した僕らは半年後にはそれぞれ全くバラバラの道を進む。
もしかしたらもう二度と合わない人もいるかもしれない。
でも、あのとき一生分の楽しいことを一緒にした僕らなら、それぞれ僕たちらしくズルしたって真面目にだって生きてゆける気がする。
『新興宗教オモイデ教』『美丘』
昨日は一日中暇だったから日記を書いたり本を読んだりした。
大槻ケンヂの『新興宗教オモイデ教』と石田衣良の『美丘』を一気読みした。
『新興宗教オモイデ教』は文句なしに面白かった。
大槻ケンヂの本で有名なのは『グミ•チョコレート•パイン』だと思う。
バンドや映画に対する愛や女の子に対する憧れがすごい熱量で書かれていてドロドロの液体がキラキラ光っているような素晴らしい小説だった。
文章が堅苦しくなくてライトノベルみたいな感覚で読めてしまうからとてもオススメです。
今回読んだ『新興宗教オモイデ教』も大槻ケンヂの趣味や性癖をそのままストーリーにしたような小説だからやっぱり文書全体に勢いがあって読んでて体が熱くなるような感じがした。
でもちゃんと起伏や起承転結があって最後にはすごく切ない気持ちになる。
小説としての完成度も高いと思った。
新興宗教って単語を聞くと嫌悪感を覚える人も一定数いると思う。
気持ちは分かるけど、僕は新興宗教とか結構面白くて好きです。
オカルトチックな面が目立つけど以外と組織として合理的に運営していたり、教祖と呼ばれる人が持つスキルとか興味深いところがたくさんある。
まあ自分の周りの人が宗教にハマったら辛いけど。
宗教についてはちょっとした僕なりの考えみたいなものがあっていずれ書くかも。
『新興宗教オモイデ教』を読み終わった後にまだ時間があったから『美丘』を読み始めた。
面白い小説を読み終わるとランナーズハイみたいな感じで早く次の小説を読みたくなってしまう。
『美丘』は大したことなかった。
ヒロインが病気で死んでしまう系のラブストーリーなんだけど、あんまり面白くなかったし、あんまり悲しくもなかった。
僕の悪い癖でヒロインに恋できないと小説に入り込むことができない。
あんまりヒロインのことを可愛いって思えなかったから少し冷めた気持ちで読んでしまったのかも。
でもたまにグッとくる表現があった。
若さというのは不思議なもので、何が起きてもストレートに欲望に結びついてしまうのだ。
いい映画を観た。きみを抱きたくなる。いい音楽をきいた。やっぱりだきたくなる。あの夜のように切なくてたまらないことがある。それでも、僕たちは抱き合いたくなったのだ。
これは物語の終盤の主人公の地の文なんだけど、ここに書いてある通りこの小説はセックスばかりしている。
人によっては「君たちセックスばかりしててはいけないよ」って思う人もいるけど僕は別にしたいだけすればいいよって思うタイプだから、この文章はなんとなくしっくりきた。
たしかにな、不思議だな、でも分かるなって思った。
石田衣良の小説は先日『下北サンデーズ』読んで面白かったから期待して読んだんだけどそういえばそっちもヒロインはあんまり可愛いと思わなかったなー。
僕が小説に出てくるヒロインで最近可愛いって思ったのは、
大槻ケンヂの『グミ•チョコレート•パイン』
山崎ナオコーラの『ニキの屈辱』
とかかな。まだたくさんありそうだけど思い出せない。
そんな感じで一日中本を読んでいた。
夏休みだから外にでて遊ばなきゃって思うけど、夏が終わった時に思い出しそうな1日になったからまあよしとする。
明日から1週間は夏のイベントを詰め込みまくったから楽しみだ。
とりあえずバイト行ってきます。
日記
昨日彼女とライブを見にいった。
ちょっと変わったライブハウスでお酒とカレーがとても美味しくて、弾き語りをメインにやっているらしい。
僕は安い居酒屋でしか飲んだことなかったから、昨日飲んだジントニックは今まで飲んだジントニックの中で一番美味しかった。
ライブに行くといつも気が遠くなるような感覚に襲われる。
何かを表現するためにステージに上がる人がいて、それを僕はどれだけ真剣に聞いてもきっと10分の1も受け取ることができなくて、ライブハウスは全国に1万以上もあって、そこで毎日こんな風に誰かが何かを表現している。
ライブハウスに来れなかった日も、そしてその日別の1万のライブハウスでも、今日の僕みたいにエモくなっている人がいる。
そう思うとこの世界の情報量の多さに気が遠くなってしまう。
たぶん弾き語りだから余計そう思えたんだと思う。
アコースティックギターと歌しかないから、メッセージに集中しやすいからね。
最初の出演者は僕の大好きなアーティストでとても良い演奏だった。
歌もギターも他の出演者に比べたら下手なんだけど、とにかく曲が良い。
もし自分に曲を作る才能があったらこんな曲を作って好きな子のために歌いたいなって思わせるような曲。
愛が呼ぶ方へ行けたら幸せだろう
愛と幸せって言葉が入っているからなんとなくあったかいイメージがあるけど、行けたら、だろうっていう仮定の話。
そもそも愛が呼ぶって不思議なフレーズだ。
でもきっとそうなんだろうなって思わせる説得力があって僕はとても好き。
2番目の出演した出演者が3曲目くらいに『白い粉』という曲を演奏した後に、「私はまともな人間で私以外がみんな狂っている」みたいなことを言っていた。
ジョンレノンが「現実ってのはドラッグとうまくやっていけない人のためにあるんだ」っ言っていたのを思い出した。
「私はまともで私以外がみんな狂ってる」って言われたら普通の人は狂ってるのはあなたでしょって思う。
ジョンレノンもそうだけど一般とはなぜか正誤が逆転してしまっている。
きっと絶対的な基準が世間一般の基準とは独立しているからだと思う。
とても強い人間だなって思った。
絶対的な基準が自分にあるっていうのはある意味自分勝手ではあるけど、自分で何もかも決めることができるしそれを人のせいにすることがないから僕は強いって思う。
3番目の出演者の人は歌が始まった瞬間にビックリするくらいのエネルギーで歌い出して圧倒された。
弾き語りの時ってバンドの時とは違って演奏の迫力やアンサンブルを聞くっていうよりは、曲自体の良さを味わうようなイメージで僕は聞いている。
でもその人はギターも歌も演奏が素晴らしかった。
そして曲も本当にいい曲ばかりだった。
家に帰ってからyoutubeで一通り聞いてすっかりファンになった。
それから僕らはカレーを食べた。
僕はライブハウスで飲み物以外のものを口にするのは初めてで食べるまでにちょっと戸惑ったけどとても美味しかった。
彼女はライブハウスに向かっている時からカレーを食べるって宣言していたから僕はカレーが食べれて良かったねって思った。
今すごい小学生みたいな文書を書いてしまった気がするけど、本当に良かったねって気持ちでいっぱいだったから他に書きようがない。
それからお腹がいっぱいになった僕はジントニックのせいもあってぼーっとしてしまって、あっという間に最後の出演者の演奏が終わってしまった。
寝てたわけじゃないんだけどあんまり記憶がない。
ちょっと勿体無い気がするけどカレーもジントニックも美味しかったからいいや。
ライブのない日に普通にご飯を食べにきたいくらい美味しかった。
ライブが終わってもしばらくは席を立たずにいろんな話をした。
僕らはまだお互いのことをよく知らないからテーマのない会話は少しづつ相手のことを知れてすごく楽しい。
あとカレーが食べれて良かったねって思った。
そのあと出演者の人と少し話をしてからライブハウスを後にして駅に向かった。
駅までは線路沿いをずっと歩いて、10分くらいの道のりだったけど僕の感覚的にはあっという間だった。
彼女とは違う路線の電車だったから改札で別れた。
別れる時に次に会う日の確認をして、手を振った。
やっぱり普通に寂しかったから帰らないでって言いたくなったけど、きっと困らせると思ったから言わなかった。
そして僕も電車に乗って、カレーが食べれて良かったねって思いながら帰った。
これで一日はおしまい。
書いてみたはいいものの、すごい長文になったし、デートのことを書くのってなんだか女子高生のホームページみたいで恥ずかしいから公開するのはやめようかなって思ったけど、まあ別に読まれんだろうし書くの楽しかったから公開しちゃおう。
日記書くの楽しいからまたそのうち書こうかな。
『ヒミズ』『生きてるだけで、愛』
小さい頃は 神様がいて
不思議に夢を かなえてくれた松任谷由実『やしさに包まれたなら」
1年ほど前に映画は見ていたので、映画とのラストの違いに驚いた。
漫画の『ヒミズ』には主人公にしか見えない化け物のような生き物がちょくちょく登場する。
自分にしか見えない何かが見えているっていう状況は漫画や映画でよくあると思う。
おやすみプンプンではプンプンにはずっと神様が見えていたし、ジョゼと虎と魚たちでは、ジョゼには深海魚のような魚が見えていた。
そういった自分にしか見えない不思議なもの、以降〈化け物〉と表記しようと思う。
冒頭に載せた松任谷由実の曲みたいに小さな頃にその幼さゆえに何かが見えてしまうなんて生易しいものではなくて、ある程度社会の常識や自意識が固まり始めた人間にとってそんな物が見えてしまうのは辛いことなんだと思う。
僕はフィクションの世界ではなく、〈化け物〉が見えてしまう人が実在しているのかどうか分からない。
でも漫画や映画に出てくる〈化け物〉はきっと他人には決して理解してもらえない自分の心理や思考を具現化したものなんじゃないかと思う。
たとえば僕は昔、給食に出てくる春巻きの裏側がふやけてグニグニしてるのを見るのがなぜか恐ろしかった。
それを友達に話しても首をひねるばかりだった。
そういったとにかく他人には理解できない何かが〈化け物〉なんだと思う。
それなら〈化け物〉を抱えている人は少なからずいるんじゃないかな。
本谷有希子の『生きているだけで、愛』という小説がある。
主人公である寧子が〈化け物〉を抱えていることを告白するシーンがいくつかある。
他の人はなんでもないことのように朝起きて夜寝るっていうのに、自分にとってはそれがまるで無理難題みたいに立ちはだかって意味が分からない。日が出ているうちに起きる。たったそれだけのことがなんでできないんだ? 自分は本当にみんなと同じ生き物なんだろうか? あたしには何が欠落している?
「お前がみんなと同じふりをしてまぎれていることは分かってるぞ。」と警告されているんじゃないかと錯覚することがある。
寧子はいわゆるメンヘラという類の女の子だ。
ちょっとしたことで死にたくなるし、ちょっとしたことが原因で奇行にはしる。
情緒不安定で躁鬱病だ。
他人のように生きていくことができないが、1人で生きていくこともできない。
自分でも自分のことが分からないけれど、誰かに自分のことをわかってほしい。
この小説はそんな寧子の苦悩、〈化け物〉との向のき合い方を描いた傑作小説だ。
物語の終盤に彼氏である津奈木に対しての寧子の叫びが見事なので一部を引用する。
あんたが別れたかったら別れてもいいけど、あたしはさ、あたしとは別れられないんだよね一生。うちの母親は今でもたぶん雨降ったら寝てると思うし、あたしだってこんなふうに産まれちゃったんだから死ぬまでずっとこんな感じで、それはもうあきらめるしかないんだよね?
あきらめなきゃ駄目なんだよね?
いいなあ津奈木。あたしと別れられて、いいなあ。
あたしはもう一生、誰に分かられなくったっていいから、あんたにこの光景の五千分の一秒を覚えてもらいたい。
生きてるだけ、それはつまり自分が自分であること。
誰かのための自分ではなく、誰かから見た自分でもなく、完璧な一人称の自分。
愛されるために何かをするわけではなく、愛するために何かをしてあげるのではなく、相手の〈化け物〉を理解してあげるわけではなく、ただただ肯定し、受け止めてあげる。
つまり生きてるだけで、愛なのだ。
本谷有希子の考える新しい愛の形。
昔サークルの先輩が「今の彼氏はきっと私が動かなくなって、ただ息を吸って吐くだけの存在になっても愛してくれる」って言っていたのを思い出した。
言葉通りの生きてるだけで愛の究極の形を体現していた。
ネタバレするけどヒミズの漫画と映画のラストシーンの違いは、最後に主人公が自殺するかしないかの違い。
漫画の最後に自分で頭を撃ち抜く主人公は最高にカッコよかったけど、映画の最後のヒロインと一緒に走って自首しに行くシーンも最高だった。
まさに生きてるだけで愛って感じがした。
ちょっとダラダラ書きすぎた感あるし、うまくまとめられないし、言いたいことは全部言えたのでこれで終わります。
『ヒミズ』『生きてるだけで、愛』は僕の大好きな作品で、とてもオススメです。
頑張る=偉い?
今日はバイト中に一生忘れることはないだろうセリフを聞いたのでそれについて書きます。
すこし長くなります。
僕のバイト先はお寿司屋さんなんだけど回転寿司ではなくて、注文されてから握るタイプの店で、店はすごく大きくて一度に200人近くのお客さんが入ることがある。
寿司だけではなく煮物や天ぷらもだすいわゆる寿司割烹料理店でちゃんと修行を積んできた料理長と呼ばれる人がいてその下に1人だけど弟子として若い見習いがいるような本格的な店だ。
料理長は40代前半くらいで若い時から修行をつんでいるから料理の知識も技術も目を見張るものがある。
世間が言う料理上手なんてものではなくて、お造りは写真に撮りたくなるくらい綺麗だし、食材についての知識もとても深くて、いわゆるプロフェッショナルだ。
その見習いである弟子は今年23になる男で、もう6年も料理長のもとで勉強している。
弟子はあまり真面目に修行を積んでいるとは言えず、料理長にたくさんのことを教えてもらってはそのつど忘れて、何度も同じことで怒られて、料理の勉強もせずにパチンコばかりしている。
僕からみても向上心がないように思えた。
料理長は厳しい人だから毎日のように弟子を厳しく叱っていて時には怒鳴ったり手をあげたりする。
でも理不尽に怒ったりはしなくて、ちゃんと怒るべき理由があるから怒るし、なにより6年も面倒を見ている料理長には怒る権利があると僕は思っている。
そんな料理長が例のごとく今日も弟子を怒鳴りとばした後に、僕の横にきて静かにこんなことを言った。
「俺はどうしてこんなにいつも怒ってばっかりいるんだろうな…
意外かもしれないけど俺だって休みの日にはよく笑うんだぞ」
僕はその言葉を聞いて涙が出そうになってしまった。
仕事ってなんて辛いんだろう。
「いつもあいつを怒ってばかりいるからバイトの子たちには俺はヤバイ人だって思われてるんだろうな。
俺だって本当は怒りたくなんかないさ。」
そこまで言うと作業に戻っていった。
僕は何も言えなかった。
僕は料理長がヤバイ人だとはこれっぽっちも思っていない。
確かに厳しい人ではあるけど決して気難しいわけじゃなくて、頑張ったら褒めてくれるし、とても気にかけてくれる。
ただ仕事に対してストイックなだけだと思う。
6年も弟子として働かせたんだから一人前にしなきゃいけないという使命感みたいなものがあって、そのために怒りたくなくても声を荒げてしまうんだと思う。
でも確かにバイトやパートの中には料理長のことをヤバイ人だって思ってる人も少なからずいる。
ただひたすら料理長なりにストイックに仕事に向き合えば向き合うほど怒らなきゃいけないし、その分まわりには怖がられてしまう。
救いがないように思えた。
僕はバイトを初めるまでは仕事を真面目に頑張れば当然報われると思っていた。
でも世の中はそんなに単純ではないみたいだ。
それは就活を終えた今ならすごく身にしみていて、どれだけ一生懸命就活をしても内定を貰えない人はいて、就活においては「頑張る=偉い人」って方程式が成り立たなくなる。
でも「頑張らない=ダメな人」って方程式は依然としてなりたつ。
この不思議な2つの等式は仕事を退職するまで付きまとうのかな。
きっと何度も何度もやりきれない思いをするんだと思う。
それでも僕たちは仕事を頑張るしかないのだろう。
辛いなんてことは分かりきっていても、自分がやりたくもない仕事でも、勤務中に一切の笑顔がなくても、僕たちは仕事を頑張るしかないのだろう。
と、まあ実際に働いている人が読んだらたくさんの異論を唱えそうな文章を書いてしまった。
でも僕は本気でそう考えているし、仕事が楽しいなんて言ってる人は本当に幸運な人なんだと思っている。
明日も朝はやくからバイトなのでそろそろ寝ようと思う。
バイトはとても辛いけど、1週間後に彼女に会えるから頑張れる。
半年後に仕事をはじめたらもっともっと辛いと思うけど、その時も彼女がいてくれたらきっと
周りに頑張りが認められることがなくても、頑張っていけるんだろうなって思う。
あんまこの話とは関係ないけど。
深く眠る前にあなたの声を忘れないように
ブログを始めたばかりの頃に東京について僕のイメージと憧れを書いたから今日は京都について書こうと思います。
まあ本当は僕の好きな女の子がいま京都にいて、それがきっかけで京都のことをいろいろ考えていたら文章ができてしまったってだけなんだけど。
僕はとにかく京都が好きで、大学に入学してからだけでも10回は訪れている。
とはいってもあんまり観光らしいことはしてなくてお寺を見て回ったのは2回くらいしかない。
僕が京都を好きな理由は歴史的、文化的な側面ではなくて、逆に若者の街というイメージが強いからだ。
京都が若者の街というイメージは一般的ではないかもしれない。
しかし僕は京都は大学生の街だと思ってる。
京都大学、同志社大学、立命館大学があって他県から多くの大学生が集まる。
そのために大学生の数はとても多いんじゃないかと僕は勝手に考えている。
東京ももちろん全国から学生が集まるが、ビジネスで集まる人も多くいるので人口割合で言えば大学生の比率は高くないだろう。
人間が一生の中で一番多くの個性に出会うのは大学生活中だと思っている。
中学校、高校では同じような地域に住んでいて、同じ制服を着て、同じ勉強をしている人達と毎日顔を合わせる。
そして社会人になれば似たようなスーツを着て、同じ仕事をして、そのため同じような時間の使い方をして、生活のためにお金の使い方も似てきて、そんな人達と毎日顔をあわせる。
あまり個性に出会う機会はないと思う。
しかし大学は出身も違う、勉強の専門も違う、それぞれが好きな服をきて、バイト代の使い道も様々、といったようにたくさんの個性が一挙に集う稀な環境だと思う。
そのためか大学生の多い京都は非常に個性的なスポットが多い。
他の地域には絶対にないものがたくさんある。
僕はその点が京都の魅力だと考えている。
学生の街だから京都が好きっていうのはそういうこと。
僕が京都で初めて訪れたバーは、ユーミンの曲が永遠に流れ続けてて、曲名にちなんだカクテルが置いてある変わったバーだったし、
先日行った喫茶店はジョンレノンが訪れたことで有名だったし、
猫で出汁を取っていると噂されている屋台のラーメンはとても美味しかった。
京都は本当に飽きない。
京都に住む人に京都案内を頼むとたいていはお寺めぐりになると思うけど、お寺抜きの京都案内を頼むとその人独自の観光ルートを案内されて楽しい。
もし大学生活をやり直せるなら京都で大学生活をおくりたい。
授業のない日に一日中街をうろうろして、喫茶店のコーヒーを飲み比べたり、どの古本屋が自分好みの品揃えなのかをチェックしたりして自分だけの観光ルートを見つけることに大学生活4年間を捧げたいと思う。
あ、くるりのボーカルが行きつけだったと言われている小さなラーメン屋さんはとても美味しいからオススメです。
船岡温泉の近くにあります。
以上、僕が京都を好きな理由でした。
居酒屋の隅っこから
今日はサークルの同期数人で飲んだ。
明日から夏休みだからとりあえず半年お疲れって意味で、安い居酒屋にいってその中でも安いメニューを頼んで乾杯した。
大学の近くの居酒屋だからテスト終わりの20人くらいの学生の団体がいて店内はすごく騒がしかった。
僕らは4年生だからテストは少ししかないし、そもそも授業が少ししかないから開放感はそんなになくて、あんまり盛り上がることもせず隅っこのテーブルでゆっくり飲んだ。
学生の団体は店の真ん中に陣取って大盛り上がりだった。
僕たちも1.2年前までは彼らのように大声を出して酒をガバガバ飲んでいたはずなのにいったい、いつの間に彼らを遠目で見るような存在になったのかを考えてしまった。
この居酒屋の様子は大学生活の縮図みたいだなって思う。
居酒屋の中心には大学生活を最高に楽しんでいる人達がいて、隅っこには僕たちみたいにあんまり大学生活を楽しんでいるとは言えない人達がいる。
そして半年後に卒業してしまえばこの居酒屋に僕たちの居場所はない。
フランスの哲学者のサルトルの言葉にこんなものがある、
『青春とは、奇妙なものだ。外部は赤く輝いているが、内部ではなにも感じられないのだ。』
まったくその通りだと思った。
1.2年前は僕らも居酒屋の中心にいたけど、少しづつ少しづつ中心から隅に移動して、きっともう少しで店の外に押し出されてしまうんだ。
また居酒屋の中心に戻りたいって思うけど、それはやっぱりもう無理だと思う。
今の僕らにとって梅酒のロックは罰ゲーム用じゃないし、トイレは用をたすところで嘔吐するところじゃないし、二日酔いは辛いってことを4年間ですっかり学んでしまっている。
お酒というものが楽しむためのツールではなく、ただ集まるための口実でしかない。
そんな僕らは赤く輝く彼らを外部から見ることしか出来ないのだ。
そう思うと少しだけ辛かったけど、別に今日の飲み会がつまらなかったわけではなくて、それなりに楽しかった。
たくさん笑ったし、聞いて欲しかったことを話せたし、なにより僕だけじゃなくて同期と一緒に隅っこに座れた。
半年後に僕がこの居酒屋から居場所を失うときは彼らも一緒だって思えたのが心強かった。
僕らは飲み放題のオーダストップがかかる前にお会計を済ませて店を出た。
店を出るときになるべくたくさん店内の空気を吸った。
どうしても少しだけ今までの大学生活を想った。