夢と魔法と僕の自意識と

 

今日は飲み会の席で親しい友達と3杯目のグラスを片手にだらだら話すようなしょうもないことを書きたいと思います。

ただ猛烈にディズニーランドに行きたいという願望をつれづれなるままに、書きなぐります。

 

僕はとにかくディズニーランドが好きだ。

入場ゲートをくぐった瞬間にアドレナリンが爆速で体を駆け巡り、最初の目的地も決めずに奇声をあげながら走り出してしまうくらい。

園内では終始脳内麻薬ムンムンのドーパミンがミンミンで喜怒哀楽の楽以外の感情が欠落し笑顔先行型の人間になってしまうくらい。

まぁ最後に行ったのは中3の春休みでもう6.7年は前になるからかなり美化されてる部分はあると思うし、すこし大げさに書いたけど。

それくらい好き。

 

なぜそんなに好きなのに6.7年も行ってないかと言うと僕の自意識のこじらせ方に問題がある。

中学までは家族なり友達なりと楽しくディズニーランド訪れていた。

しかし高校生を過ぎたあたりからディズニーランドといえば恋人と行くものという思考回路が脳に焼き付いてしまい、家族や友達と行くことがどうにも恥ずかしくなってしまったのだ。

僕には異性の友達がいないから友達と行くとなるとメンズオンリーになっちゃうからとても見苦しい。

 

高校時代から現在にかけて一度も彼女ができなかったわけではないのだが、僕は名古屋に住んでいるからディズニーランドに行くのは距離的にも料金的にもそれなりのハードルがあって温めているうちに破局してしまい結局現実とはなっていない。

 

大学生といえば海、フェス、スノボ、ディズニーだ。

在学中にディズニーランドを訪れるのが僕の入学時の目標であり、徐々に卒業が迫るとともに早く一緒に行ってくれるパートナーを見つけねばという焦燥感が襲って来ている。

しかし僕も22歳となり彼女を作るまでのプロセスのなんと難航を極めることかを知り諦めムードが漂っていることも否めない。

 

どうしたものか。

っていう僕の最近の1番の悩みをここに告白しました。

そういえば巷では『22年目の告白』という映画が流行っているそうですね。

僕の友人が彼女と見に行って面白かったと言っていました。

彼らは夏休みにディズニーランドに行くそうです。

そうです夏はもう目前なのです。

 

話が脱線して来たので最後にこれだけ書いて終わりにしようと思います。

 

ミッキー池に落としたの俺の中学の先輩だから!

お前らの中学の先輩じゃねぇから!

ニシノユキヒコの恋と冒険を読んで

 

久しぶりに本読んだし感想文でも書いてみます。

僕はあんまり感想を口にしたり文字にしたりするのは得意じゃないくて、どんなに感動した作品でもたいていは面白かったくらいしか言うことない。

そもそも感想文の書き方もよくわからないし。

だから感想文というより、好きなシーンをあげてくだけになりそうだな。

まあなんとなく書いてみる。

 

川上弘美の『ニシノユキヒコの恋と冒険』という小説を読んだ。

 

ニシノくん、幸彦、西野君、ユキヒコ……。姿よしセックスよし。女には一も二もなく優しく、懲りることを知らない。だけど最後には必ず去られてしまう。とめどないこの世に真実の愛を探してさまよった、男一匹ニシノユキヒコの恋とかなしみの道行きを、交情あった十人の女が思い語る。はてしなくしょうもないニシノの生きようが、切なく胸にせまる、傑作連作集。

とりあえずAmazonの内容紹介からコピーしてきた。

 

主人公のニシノユキヒコの恋愛遍歴を彼のことが好きだった10人の女の子たちの目線で描くっていう連作短編集。

ニシノユキヒコはすごく女にモテる。

そして女好きだ。

でも彼は女の子を愛すことができないし、それもあって女の子に愛されることもない。

愛せない理由はニシノユキヒコの過去に原因があるんだけどその辺はあんまり僕は興味なくて

彼がモテるということが僕にとっては重要だった。

 

僕はとにかくクズ良い男が好きだ。

クズ良い男ってのは、たとえば彼女がいるのに家に何人も女の子を連れ込んじゃうようなクズ男なんだけど、女の子達はそいつのことを好きにならずにはいられないような魅力を持つ男のこと。

魚喃キリコの『南瓜とマヨネーズ』に出てくる萩野とか、南Q太郎の『さよならみどりちゃん』にでてくるユタカとか、どうしようもなくだらしなくて、どうしようもなく女にモテる、そんなチャラい男が僕は好き。 

本谷有希子の『ぬるい毒』にでてきた男もそんな感じだっけな。

 

僕がなぜクズ良い男が好きかというと単純にカッコいいと思うから。

僕は女好きだけど女の子にへりくだるし、ぜんぜんかっこ良くないからモテないけどバカすぎずチャラすぎずのバランスが良いから女の子に弄ばれやすいタイプ。

 そんなしょうもない僕にとってはクズ良い男の所作や発言の全てがスマートに見え憧れてしまう。

 

ニシノユキヒコもモテるし、女にだらしないんだけど僕の好きな憧れるタイプとはちょっと違う感じがした。

彼からはあんまりチャラさを感じなかった。

いや、彼女がいるのに元カノと旅行に行っちゃうやつだからチャラいんだけど。

チャラさっていうか男らしさをあまり感じなかったって言った方が近いかな。

 

でも彼の女の子に対する振る舞いはいちいちかっこいいし可愛い。

それは彼がどの女の子たちともいつも対等でフラットな立ち位置から接しているからだと思う。

男ってやっぱりどうしても多少は男尊女卑的な思考を持っていると思う。

でも僕はそれが一概には悪い事だと思ってなくて、だからこそ女の子に優しくできるし厳しい社会の中でも強くあれるし、男尊女卑がいわゆる男らしさの源でもあると思ってる。

 

でもニシノユキヒコは女の子と接するときも男らしさで責めることはなくて、純粋な自分の欲求をさらけ出すだけの一本勝負って感じがした。

自分の欲求をさらけ出すだけでモテたら誰も苦労しないからそこはニシノユキヒコの生まれ持った才能だったんだと思う。

恋愛上手な人ってやっぱり恋の駆け引きができる人だと思う。
ニシノユキヒコは駆け引きなんかしないから恋愛上手とは言えないと思うんだけど、読んだ人はどう思うんだろう?

 

この小説はひたすら女性目線で書かれているからきっとレビューサイトには女性の心情に共感しました的なことが書いてあるんじゃないかな。

僕は女じゃないし女心も分かんないからきっと全く違った感想が書いてありそうだ。

後で読んでみるとしよう。

 

僕はあんまりニシノユキヒコには憧れなかったんだけど1つだけどうしても真似してみたいことがある。

女の子のシャックリをキスで止めるやつ。

このシーンには思わず拍手しました。

 

『ニシノユキヒコの恋と冒険』

とても面白かったです。

 

アンバランスな Kissで書かれた  ふたりのシナリオ
愛と呼ぶほど強くなくても 君のすべてが痛い

ただ、君の君の側にいたいよ

アンバランスな Kiss を交わして 愛に近づけよ
君の涙も哀しい嘘も 僕の心に眠れ

君の心が僕を呼ぶまで 抱きしめあえる日まで

 高橋ひろ『アンバランスなKissをして』

儚さと美しさって関係あるの?

 

さっきインスタのライブでアメリカ人の女の子がマリファナを吸いながらラテン系の音楽を流して歌ってるってだけの配信を見てた。

その女の子はたぶん20代前半で金髪で華奢な体をしていてとても美人だ。

アメリカ人の特有の明るいチャーミングな笑顔を見せてくれるんだけどマリファナのせいか目が虚ろで、それがアンニュイでシニカルな雰囲気を醸し出していて今までに出会ったことのない類の美しさだった。

なにかドラマチックなことがあるわけじゃなくて、その子が音楽に合わせて歌って時折マリファナを吸うだけの退屈な配信だったけどその美しさに僕は目が離せなかった。

 

ところで日本人はよく儚いから美しいみたいなことを言うけど、これって誰もが納得して受け入れているのだろうか。

僕も感覚的にはなんとなく分かるし受け入れているけど、よく考えると「儚さ」と「美しさ」って因果関係をはっきりと結べるのだろうか。

例えば桜はすぐに散ってしまうから儚くて美しいって言うけど、じゃあもし仮に永遠に散らない桜があったとして人々はそれを見たときに美しいと思わないのかな。

たぶんきっとそうなんだと思う。

 

だって僕がマリファナガールから目を離せないほどの美しさを感じたのはきっと彼女にも儚さを感じたからだと思う。

 

僕たちは義務教育の中でドラッグについて学んだけど、それを大雑把にまとめると一度でも手を出せば人生が終わるってことだった。

本当にただただ憎むべき物として教えられてきた。

 

まぁマリファナは体に悪くないし依存性もないって言われているけど、それはこの際置いておいてドラッグという類で見てしまおう。

 

そんな風に育ってきた僕にとって彼女のマリファナを吸うという行為は自傷的に見えてしまうし、だからこそ彼女の命の有限さを解析的に見せられたように感じてどうしようもない儚さを感じたんだと思う。

 

じゃあいったいどうして儚いと美しいんだろう。

 ネットで調べてもあんまり納得いくような答えはなかったから自分で考えてみる。

まず「儚い」を辞書で調べてみると「消えてなくなりやすい。」「もろくなくなりやすい。」「不確かであてにならない。」って書いてあった。

次に「美しい」は「色・形・音などの調和がとれていて快く感じられるさま。人の心や態度の好ましく理想的であるさまにもいう。」って書いてあって辞書的な意味での関係はなさそうだ。

 

うつくしいで辞書を引いて驚いたんだけど、「愛しい」と書いてうつくしい読めるらしい。

意味は「美しい」と一緒。

つまりいとしさはうつくしさでもあるんだ。

ちなみに「愛しい」(いとしい)の意味は「かわいく思うさま。」「恋しく慕わしい。」「かわいそうだ。」「ふびんだ。」。

 

僕らは儚いものを見ると、特に儚い命を見ると「かわいそうだ。」「ふびんだ。」って思う。

つまり儚いものに愛しさ(いとしさ)を感じているのだ。

そしてその愛しさ(いとしさ)は愛しさ(うつくしさ)であり、つまり美しさ。

 

まとめると

僕らは儚いものに愛しさ(いとしさ)を感じる。

そして愛しさ(いとしさ)は、(うつくしさ)でもある。

つまり僕らは儚いものに美しさを感じている。

っていうこと。

 

なんか結局ただの言葉あそびになっちゃって、本質をまるで捉えられてないけどそういうことにしておく。

 

ちなみに愛しいは、かなしいとも読むから悲劇とかが美しいってのも同じ理由でいけるんじゃないかな。

 

非常にわかりにくい文章になってしまったけど、いつかまた文章力をつけてこの問いにはチャレンジしてみたいと思う。

僕は「愛」って言葉が好きだから、儚さと美しさを結びつけるのは「愛」なんだ!ってなって一人で興奮している。

愛とは何かってことについても大学を卒業するまでにはなんとなく答えを出したいな。

 

 

サラリーマンと無限の可能性

 

就職活動が終わった。

休みがあれば給料は低くてもいいなんて言ってた僕だけど、あっさりと休みも多くて給料も多い企業に内定をもらった。

まあ実際に働いたわけではなくてネットの情報を見ただけだから本当かどうかわからないし、入社してから退社するまで一生トイレ掃除だけをやらされる可能性だってあるわけだからなんとも言えない。

それでも企業の名前を言えば周りの人は驚いてくれるし、褒めてくれるから世間から見れば就活は成功したんだと思う。

 

元カノが何度か「君が大学卒業してバンドマンか芸人になるって言い出しても応援する」って言ってくれてた。

その子とは別れて、実際に内定をもらって、とうとう僕はバンドマンになる未来も芸人になる未来もなくなった。

別にバンドマンになりたかったわけではないけど。

 

小学生の時とかによく大人たちが「君達には無限の可能性があります。」って言ってたのを覚えている。

僕の友達はその言葉が大嫌いだって言ってて、

「俺は生まれた時から出来ないことがたくさんあって、出来ないことから逃げ続けてきたから今の自分がいるし、だからこそ今の自分が可愛いし今の自分が好きだ。

俺には野球選手になる未来なんて生まれた時からなかった。

俺のことだもん誰よりわかるよ。」

そんなことを言っていて、僕は流されやすいので確かにその通りだなあって思った。

 

でも実際にあのころ思い描いた未来の自分に今なってみて思うのはやっぱり「僕には無限の可能性があったんだな」ってこと。

当然僕も最初から野球選手になる未来はなかったし、能年玲奈と結婚する未来もなかった。

生まれた瞬間から将来なることのできないものはたくさんあったと思う。

この無限ってのは何にでも思い描いたものになれるって意味じゃなくて、本当に多くの選択肢があってそれをいちいち数えてられないから近似的に無限って表現した。

バンドマン、芸人、ニート、…いろんな可能性があった。

僕は生まれてから22年間で無限の選択肢の中から少しづつ少しづつ選択肢を狭めていって、いざその中から将来を選ぶ時に残ったのはサラリーマン1つだった。

そりゃ今からでもバンドマンになることはできるかもしれないけど、僕という人格が出来上がってしまった以上サラリーマン以外の選択肢はないのだ。

サラリーマンといってもまた無限に近い数の会社があってそのなかから1つの企業を選んだ。

つまりこの企業を選ぶような生き方を自分で選んできたという事で、残り物を仕方なく選んだわけではなくて僕にとっては満足のいく選択なのだ。

 

もちろん僕にはまだまだ将来については選択肢がある。
転職するかもしれないし、結婚するかもしれないし、海外で生活することも出来る。

 

私が私である限りこんなにも自由


どこかで聞いたセリフだ。

僕は限られた無限の中で自由にやってるよ。
とりあえず厄介な選択を終えたところだけど人生にはまだまだたくさんの選択肢が残ってるからゆっくりのんびり狭めていって最後は消去法だ。

 

今朝の風はなんだかちょっと
冷たく肌に吹いてくるんだ
ぼんやりした頭がすこししゃんとするんだ
憶えてない夢のせいで心が
何メートルか沈み込むんだ
熱い濃いコーヒーを飲みたいんだ
そっちはどうだい うまくやってるかい
こっちはこうさ どうにもならんよ
今んとこはまあ そんな感じなんだ

サニーデイ・サービス 『青春狂走曲』

 

 

Hello wordの感覚

 

#include <stdio.h>

int main(int argc, char *args[])
{
printf("Hello, world! ");
return 0;
}

 

ぼくのブログのタイトルはHello worldって名前なんだけど、この意味はきっと情報系の勉強をした人じゃないと分からないと思う。

バンプにもたしかhello worldって曲があったと思うけど、僕はちゃんと聞いたことないしこのブログとは一切関係がない。

 

上に書いた謎の文字列は、プログラミングを学ぶ人が一番最初に作らされるプログラムだ。

なんてことはない、ただ画面に「hello world」って表示させるだけのプログラム。

1ヶ月もプログラミングを勉強すれば息をするように容易に作ることができる初歩中の初歩のプログラム。

英文を勉強するときに初めに「This is a pen.」を学ぶように、足し算を勉強するときに初めにリンゴがいくつあるかで考えるのと同じように、どんな大学の先生でもどんな参考書でもまず最初にこのプログラムを書かせる。

 

ほとんどの人がそうだと思うけど僕は初めてプログラミングに触れたのは大学1年の時だ。

高校で学んだ何の役に立つか分からない勉強を終えて、大学で実践的な勉強にステップアップする。

プログラミングはそのステップアップの代表例と言えると思う。
実践的とはつまり社会に出てから役に立つ、言い換えれば仕事として使うということ。

キーボードを叩くという実際に手を動かして報酬を得るというプログラミングならなおさらだ。

 

プログラミングはコンピューターとの対話とも言えるかもしれない。

コンピューターに日本語で話しかけてもしょうがないからコンピューターにも分かるプログラミング言語を使う。

そして1と0しか分からないバカなコンピューターにも分かるような言葉遣いを選ぶ。

それがプログラミングだ。

 

僕は初めて自分でプログラムを打ち込んで画面に「Hello wold」と表示された時のことをよく覚えている。

手が震えるほどの感動があったのだ。

コンピューターとの対話はいつもの人間に語りかけるのとは全然違ってまさに世界に語りかけているような感覚があった。

これから4年後この実践的な勉強を終えて僕は社会に出るんだと世界に宣戦布告しているかのような気分だった。

 

ぜんぜん大したことではないんだけど、ただ教科書を丸写ししただけなんだけど、僕は確かに世界に触れて少し大人になった気がしたんだ。

 

中島らもの『今夜、すべてのバーで』という小説でこんなセリフがある。

「子供なんてのは、人生の中で一番つまらないことをさせられてるんだからな。私だって十七までに面白いことなんて何ひとつなかった。面白いのは大人になってからだ。ほんとに怒るのも、ほんとに笑うのも、大人にしかできないからだ。小学生には、壁の棚の上に何がのっかってるかなんて見えないじゃないか。そうだろ?」

「つまらない勉強ばかりさせられて、嘘っぱちの行儀や礼儀を教えられて。大人にならずに死ぬなんて、つまらんじゃないか。せめて、恋人を抱いて、もうこのまま死んでもかまわないっていうような夜があって。天の一番高い所からこの世を見下ろすような一夜があって。死ぬならそれからでいいじゃないか。そうだろ。ちがうかい?」

 

中島らもの言いたいこととは違うかもしれないけど僕にはなんとなくこのセリフの意味が分かる気がする。

高校では微分積分三角関数を習ったけど一体

 それがなんの役に立つかなんて分からなかった。

でも大学に入って、少し大人になってそれらの本当の意味と本当の使い方を学んだ。

斉藤和義の『ずっと好きだった』であの時のキスの意味を教えてよ、みたいな歌詞があるけど今ならキスにもいろんな意味があることが分かる。

 

大人になるってどういうこと?って大人達に聞くと十人十色の答えが返ってくる。

絶対的な答えなんてないんだけど、きっと少しずつ社会や世界のいろんな仕組みを理解することが大人になるってことなんだ。

大人になれば「Hello wold」って表示された時の感覚がたくさんあるのかな。

やっぱり大人にならずに死ぬなんてつまらないよ。

 

そんなわけでブログのタイトルにしちゃうぐらい「Hello wold」という言葉が好きだ。

あの時の衝撃を超えるような出来事はまだないけど大学に入ってから楽しいと思えることが劇的に増えた。

 

僕は大学4年生で22歳。

ハロー 世界

もうすぐ社会に出るよ。

 

 

最高のパンチライン

 

hip-hop用語でパンチラインという言葉がある。

とくにフリースタイルバトルなんかで用いられることが多い。

フリースタイルバトルとはその名の通りDJが流すビートに自由に乗ってラップでバトルすることだ。

ここ1年くらいでフリースタイルダンジョンという番組が大流行しているから知っている人は多いと思う。

 

そしてパンチラインとは本来はオチ、インパクト、印象に残る部分、という意味らしい。

要は決め台詞やグッとくる言い回しのことで、バトル中にうまくパンチラインが決まればそれだけで勝敗が決まってしまうくらい重要なものだ。

 

呂布カルマというラッパーがいる。

パンチラインの代名詞とも言えるラッパーだ。

例としてそんな呂布カルマのパンチラインを紹介する。

 

これがボクシングならありえねえ

言葉のウェイトに差がありすぎる

お前ん家にあるだろ俺のCD

お前ん家でいつもラップしてるやつがここにいるぜ?

 

フリースタイルバトルはよりヤバいことを言った方が勝ちというヤバいルールだから、こんなことを言われたら対戦相手も観客もひとたまりもないんじゃないかな。

 

パンチラインは映画や音楽にも存在する。

有名なのは『カサブランカ』という映画で主人公であるハンフリー・ボガードの「君の瞳に乾杯」というセリフだろう。

個人的に好きなのは主人公を訪ねてきた女性を冷たくあしらうシーンのセリフだ。

 

「昨夜はどこにいたの?」
「そんな昔のことは忘れた。」
「今夜は会ってくれるの?」
「そんな先のことは分からないさ。」

しびれるくらいカッコイイから真似したいと思うけど僕が真似したら女性側からものすごい反感を買いそうだからぐっと我慢している。

 

あと思いつくのはターミネーターの「I'll be back」とか、燃えよドラゴンの「考えるな感じろ」とかかな。

 

映画のパンチラインはそれまでのストーリーや映像があるからシンプルなものが多い気がする。

 

ラップバトルや映画や音楽などの様々な作品の中で僕が最も最強だと思うパンチラインは「A Whole New World」の歌い出しだ。

映画『アラジン』の主題歌で、いつもお城の中にいるジャスミンをアラジンが魔法の絨毯に乗せて外の世界を見せてあげるシーンで流れる。

 

I can show you the world

世界を見せてあげよう。

 

僕たちがライブにいったりディズニーランドに行ったり映画を楽しむのはそれが非日常だからだ。

日常ってやっぱり退屈だ。

吉本バナナは日常を細分化して普段見落としている小さな幸せを見つける大切さを描く僕の大好きな作家だけど、それではやっぱり少し物足りない。

YUKIは『JOY』の中で

死ぬまでドキドキしたいわ

死ぬまでワクワクしたいわ

って歌ってて、それは僕らの切実な願いの代弁に他ならなくて、そんなドキドキワクワクする非日常を僕らは心から欲しているのだ。

 

初めて友達と酒を酌み交わした日をよく覚えているし、初めてクラブに行った夜をよく覚えている。

そんな非日常をよく覚えている。

 

アラジンはお城の中で退屈に過ごすジャスミンの日常にドキドキワクワクするような全く新しい世界、つまり非日常を与えた。

やっぱり「I can show you the world」は最強のパンチラインで最強の口説き文句だ。

こんなセリフを言われたら手を取る以外の選択肢はないし、目をつぶる理由はどこにもない。

 

アラジンのような存在に出会いたいと思うし、アラジンのような存在になりたいと思う。

魔法の絨毯に乗って世界を旅して、好きな女の子に最高のパンチラインをお見舞いしてやれるような存在に。

 

 

最後にはきっと僕こそがラブマシーン

君にずっと捧げるよファンタジー

ブギーバット、シェイクイットアップ神様がくれた

甘い甘いミルク&ハニー

小沢健二 featuring スチャダラパー今夜はブギー・バック

 

 

書きたいこと

 

最近ブログを書いたり消したり、投稿したり削除したりを繰り返している。

僕は多くの人に見てもらいたいからブログを始めたわけじゃなくてただ自分の現在の頭の中を書いて客観的に読めるようにしたいから始めた。

 

だったらネットに公開せずに家でノートにでも書いてれば良いかなって思うこともあるけど、やっぱりそれだとあんまり客観的に読み返すことができないような気がするし、ネットに公開するのが実は楽しいってのもある。

 

公開する以上は僕以外の人が読むわけで、他人が読むんだからクオリティの高い文章を書かなきゃって思うと変に格好つけちゃったり、思ってもないことを書いちゃったりして、本当に書きたいことを書けなかったりする。

だから書いたり消したり、投稿したり削除したりを繰り返してしまう。

 

僕の頭の中には文章が並んでいるわけじゃなくて、なんとなくぼんやり考えてることとか好きな単語があって、ちゃんとオチがあったり理論的なことなんて殆どない。

 

頭の中をただ書くだけなら、それはきっと意味不明な文章だったり、単語の羅列になっちゃったりすると思う。

本当はそういうものが書きたかったはずなのに、誰かが読んでくれたら嬉しいし、お気に入りしてくれる人がごく僅かいるのもすごく嬉しかったりする。

 

といった具合に最近は独りよがりな文章を書いたり、かと思ったら変に力の入った文章を書いたりしてしまっている。

誰に向けたわけでもない文章を書くのって実は難しいんだなって思った。

当たり前だけど一口に文章と言ってもいろいろあるんだな。

 

オチはないけどこの文章はフラットにかけたような気がするから公開します。