最後の更新です。

 

最後の更新です。

明日は4月1日。

つまり今日は学生最後の日だ。

学生生活の振り返りでもしてこのブログを終わろうと思う。

本当はもっと書きたいことがたくさんあったけどダラダラしていたらタイムリミットが来てしまった。

正確にはもう24時回ってるからタイムリミット超えちゃってるんだけど。

まあ気にせず書いていく。

 

この春休みは若さをぶん回して、いろんなバカなことをした。
何日も家に帰らずに知らない街まで出かけてパチンコや競馬でたくさんお金を使った。
心霊スポットにカセットコンロを持ち込んで鍋をした。

何十時間も電車に乗って仙台と名古屋を往復した。
僕は他人が見たらなんでそんなことをするのって聞かれそうなことをするのが大好きだった。
お前らアホだなーって先輩たちに笑われるようなことをしたかった。

思えばこの4年間はそうやって過ごしてきた。

普通のことなんてしたくなかった。

ナイトプールに行ってインスタに写真をあげるような普通の大学生になりたくなかった。

休日何してる?って聞かれた時にボーリング、カラオケしか答えないような普通の大学生になりたくなかった。

 

でも大学生らしさには憧れ続けた。

僕の憧れた大学生らしさとの正体は自由さだと最近気づいた。

大学生は時間の使い方も、お金の使い方も基本的に自由。

好きな服を着て、好きな髪型をして、好きなものを食べる。

自分好みの生活に日々をカスタマイズする。

それが大学生の最大の特権だと思う。

あなたのしたいことを自由にして良いよって言われているのに、みんなと同じようなことしかしないのはやっぱりかっこ悪いしつまんない。

大学生ぽいだけで全然大学生らしくなんてない。

 

そういう意味で僕の学生生活は最高に大学生らしかったと思う。

大学生が好むブランドなんて知らないから自分が着たい服を着た。

スタバの新作なんて興味ないからオランジーナとドクターペッパーばっかり飲んでいた。

流行りの音楽は趣味じゃないからスピッツ毛皮のマリーズを聴いた。

自分の好きなものに囲まれる生活は最高だった。

だから僕の大学生活におけるライフスタイルはとても満足している。

 

あとは何を書こう。

大学生活はいろんなことがありすぎてまとめることができないな。

まとめみたいな形で書き始めてしまったから、ここに書かなかったことはなかったことになってしまいそうで、何を書けば良いかわからなくなる。

明日からは学生じゃなくなるという現実を目の前にしても、何か掻き立てられるような焦りがあるわけではなくて、社会人生活に対してただぼんやりとした不安があるだけだ。

多分僕は自分でも知らず知らずのうちに上手に大学生活と決別したのだろう。

そんな心境だから、もう無理にセンチメンタルな感じを作ろうとするのはやめよう。

 

僕の大学生活は楽しかったよ。

それで終わろう。

ほかに書くことは特にない。

 

また書きたくなったらその時にどこかに書こう。

1年間で約60の記事を書いた。

自分の中に主張したいことがそんなにあることにとても驚いた。

このブログを読み返す時、書いていた当時の感情を思い出す。

まるで昔のアルバムをめくるように。

このブログは僕の思い出のアルバムとして消さずにずっと残しておこうと思う。

書くことはやめたくないから、また一からブログ始めようかな。

まだ未定だけど。

 

さあ本当にこれでこのブログは終わろうと思う。

もう更新することはありません。

今まで読んでくださった数少ない読者の皆さま、本当にありがとうございました。

お互いに顔も知らず、感想を伝え合うこともなく、ただ読んだことだけを知らせ合う関係はとても心地よかったです。

ぜひこれからも面白い文章を書いてください。

それではさようなら。

ありがとうございました。

 

Love Love Love You I Love You!

 

僕は口で伝えるのが苦手だし、手紙も不慣れなので僕が一番うまく気持ちを言語化できるブログに書かせてもらう。

あなたは口で伝えることを大事にしているけど、このブログは僕の頭の中を素直につづったものだから許してほしい。

 

僕たちは不安を口にしないと不安でしょうがないから、4月からの話をよくする。

働くのって大変そうだなあとか、一人暮らしはしんどそうだとか。

きっとこれから疲れたり、苦しくなったり、やりきれない思いをすると思う。

でも僕はいつも思うんだ、働く辛さなんか君に会えない辛さに比べたらなんでもないよって。

優しく抱きしめるだけで何もかも忘れていられるよってスピッツが歌っていた。

どれだけ働くのがつらくても優しく抱きしめる時間さえあれば僕はそれで頑張って行ける気がしている。

今の僕にとっての幸せの定義は、明日も頑張ろうと思わされるような何か、もしくは誰かがいてくれること。

それはあなたのことだ。

 

でも明日から僕たちは一時的に離れ離れになる。

次に抱きしめあえるのはいつか分からない。

会うためには時間も、お金もかかる。

これからはその二つを自由に行使することはできなくなる。

 

会いたいときに会えないのは寂しいけど別に悲しいことではない。

そしてどうか忘れないでほしい。

寂しさを感じるのは物理的な距離に対してだ。

決して二人の関係に寂しさを感じているわけではない。

だって僕らは一日で仙台まで行けたじゃないか。

あなたのアパートの玄関、僕の寮のくたびれた扉はどこでもドアだ。

どこにでも行ける僕らはどこにいたって一緒さ。

あなたが東京にいても、大阪に行くことになっても。

 

だからきっと会えないつらさも乗り越えられる。

 

東京では美味しいものを食べてニコニコしてほしい。

東京という街にワクワク、ドキドキしてほしい。

ぐっすり寝て、すっきり起きてほしい。

大好きな音楽をたくさん聴いてほしい。

ワークライフバランスを大事にしてほしい。

どれもできる範囲で構わないから。

無理はしないでね。

僕も無理しない程度にがんばるよ。

 

それじゃあ東京までの道中お気を付けて。

行ってらっしゃい。

東京の空の星は見えないと聞かされていけど、見えないこともないそうです。

帰ってきたらどうだったか教えてね。

 

 

 

きっと想像した以上に騒がしい未来が僕を待っている

 

注:長いです。

 

楽しみにしていたイベントが全部終わった。

今日から4月から必要になるものを用意したり、書類の整理をする。

思い出作りの日々から、働く為の日々に切り替えていく。

以前も書いたけど働くことは辛いらしい。

先輩たちはみんな辛い、辞めたい、学生生活に戻りたいって言っている。

これだけ先輩たちが働く厳しさを教えてくれているんだから、聞き流すだけじゃなくてちゃんと自分の頭で働くことの辛さを考えてみようと思う。

実際に働いてみなきゃ分かんないってよく言うけど、働く前だからこそ考えなきゃいけないことだと思う。

「辛い辛いとは聞いてたけど、実際に働いてみたらやっぱり辛くて辞めたいです」なんてかっこ悪いし、せっかく考える時間が残されているのだから覚悟や対策を固めておいた方が賢いだろう。

 

僕が思うに大学生活とのギャップが大きな要因だと思う。

大学生に戻りたいなんて話をよく聞くし、これは僕のイメージなんだけど高卒で働いている人はあんまり仕事に対して辛い辛いって言わないような気がしている。

僕の周りだけかもしれないけど。

もしかしたら大学生活と高校生活の違いがヒントになるかもしれない。

 

以前ツイッターで見かけた、ある高校の校長先生が卒業生に向けた文章を引用する。

 

大学に行くとは、「海を見る自由」を得るためなのではないか。

 言葉を変えるならば、「立ち止まる自由」を得るためではないかと思う。現実を直視する自由だと言い換えてもいい。

 中学・高校時代。君らに時間を制御する自由はなかった。遅刻・欠席は学校という名の下で管理された。又、それは保護者の下で管理されていた。諸君は管理されていたのだ。

 大学を出て、就職したとしても、その構図は変わりない。無断欠席など、会社で許されるはずがない。高校時代も、又会社に勤めても時間を管理するのは、自分ではなく他者なのだ。それは、家庭を持っても変わらない。愛する人を持っても、それは変わらない。愛する人は、愛している人の時間を管理する。

 大学という青春の時間は、時間を自分が管理できる煌めきの時なのだ。

 池袋行きの電車に乗ったとしよう。諸君の脳裏に波の音が聞こえた時、君は途中下車して海に行けるのだ。高校時代、そんなことは許されていない。働いてもそんなことは出来ない。家庭を持ってもそんなことは出来ない。

 「今日ひとりで海を見てきたよ。」

 そんなことを私は妻や子供の前で言えない。大学での友人ならば、黙って頷いてくれるに違いない。

 

卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ。(校長メッセージ)

2011.03.24

 

僕はこの文章が答えではないかと思う。

高校生の頃は迷わず部活に所属した。

部活に所属すると放課後の自由な時間を他者に管理してもらうことになる。

授業中にはもちろん、放課後も土日も部活をしていたら自分の時間なんてあるはずがない。

でも別に他者に時間を管理されることに疑問なんて抱かなかったし、それは最高に楽しかった。

だってそれまでの間そうやって生活してきたし、そもそも自由な時間の意味を理解していなかったと思う。

 

今思えば大学生活は本当に自由だった。

卒業までに124単位を取ればいいという条件以外はなにも制約がない。

授業は自分の好きなように組めるし、休んだっていい。

つまり自分の時間を自分で管理することができたのだ。

僕たちは4年間で自由な時間にすっかりなれてしまった。

社会人になればとうぜん時間を会社に管理されることになる。

だから辛いのだろう。

 

近年はワーク・ライフ・バランスなんてものが重要視されている。

ワーク・ライフ・バランスは「仕事と生活の調和」と訳されるが、多くの人は仕事と生活の両立、たいていは仕事のしすぎによって生活をおろそかにしないようにする取り組みだと解釈していると思う。

主には残業を減らす取り組みや、有給制度を見直し、働く時間と生活の時間をそれぞれ確立させること。

僕もそう思っていた。

とうぜん会社に管理される時間が減ることになるから、退社後の自由な時間が増える。
だから残業時間を減らしたり、有給制度の確立は確かに有効かもしれない。

 

しかしこれは正しいワーク・ライフ・バランスの解釈ではないように思える。

ワーク・ライフ・バランスの本来の意味は「仕事と生活の調和」だ。
調和とは全体がほどよくつりあって、矛盾や衝突などがなく、まとまっていることだ。
仕事と生活を切り離すことを意味するわけではない。
だって働いている時間が減ったところで、依然として働いている時の辛さは残っているじゃないか。

働く=辛いという等式を崩さなければ意味がないのだ。

 

辛さの原因は上に書いたように、自分で自分の時間を管理できないこと。

これはもうどうしようもないことだ。

働くとはそういうものだから。

じゃあ考えるべきは自分で管理できない時間の中で、辛さを感じないためにはどうすればいいのかということ。

 

そこで必要になってくるのが高校生の時に部活動に励んでいたあの時のモチベーションだろう。

僕が部活動に励んだのは単純に楽しかったからだ。

でも今ちゃんと思い出してみたら、楽しくない時間もあったと思う、先生に怒られている時、早く寝たいのに練習しなきゃいけない時、思うように結果が出なくて悔しいと感じていた時。

でも僕は部活動を辞めようなんて考えたことがなかった。

それが僕のやりたいことであり、僕の生活の一部だったからだ。

つまり主体性を持って、時間を捧げていたのだ。

あの時のモチベーションで仕事に取り組むことができれば多少労働時間が長くても仕事に取り組めると考える。

むしろ報酬がある分モチベーションはあの時より作りやすいのではないだろうか。

 

結論です。 

働く=辛いという等式を崩すのに必要なのは、会社に管理される時間も自分の生活だという自覚を持ち、管理されながらも主体性をもって行動することだ。

ワークとライフのバランスを時間で考えるのではなく、モチベーションでバランスを取る。

それが本当の意味でのワーク・ライフ・バランスだと思う。

 

与えられた仕事の中で主体性を持つのは難しいと思うかもしれない。

でも僕たちは大学4年間で主体的に遊んで、主体的にバイトして、主体的に恋愛してきたじゃないか。

主体的に動くことを僕たちはスキルとして身につけているはずだ。

バカ高い学費はこのために払ったんだと思え。

管理されるのは時間だけだ。

モチベーションまで管理されるわけじゃない。

400万払って身につけたスキルなんだ。

腐らせて無駄にするな。

 

これが僕なりの働く辛さに対する覚悟であり対策だ。

今僕の考えていることはこんな感じ。

すでに働いている人からは共感を得ることはできないかもしれないけど、僕はそうやって働いていくつもりだ。

働いてみて僕の考えが間違っていたらまた考え直すだけだ。

働くために生きてくんじゃなくて、生きてくために働くんだ。

働くことなんてある意味でご飯を食べたり、歯磨きをするのと同じだ。

どうせなら楽しく歯を磨こうぜ。

 

 

愛してやまない音楽を

 

サークルの引退ライブがあった。

アルコールとニコチンとゲロにまみれた最高のライブだった。

後輩たちの踊り狂う姿や、同期が歌う懐かしの歌、先輩たちの盛り上げようとする姿が愛しかった。

音楽を愛する仲間たちが、色々な思いを歌に、ギターに乗せて吐き出す姿はどうしても感動した。

最高に面白くておかしくて楽しいライブだったけど、いつだって気を抜いてしまえば涙がこぼれそうになった。

 

10代の頃からいっしょにこのサークルで音楽を愛してきた。

笑いあったり、許しあったりしながら僕たちはいつのまにか22歳になった。

22歳といえば年齢的には立派な大人だ。

僕たちは一緒に大人になった。

 

大人になればそれぞれ自分なりの価値観が定まってくる。

僕は20歳を終えたあたりから価値観の合わない人間と仲良くすることができなくなった。

きっと僕だけではないはずだ。

小学生の頃、となりの家に住んでいるというだけの理由で朝から晩まで遊んだ友達がきっといると思う。

でも大人になった今、となりの家に住んでいるという理由だけでは友達になることなんてできなくなった。

近くにいるということは、気があうこととはなんら関係ないからだ。

小さな頃にとりあえず近くにいる友達と遊んでいたのは、気があうも何もなく、ただ自分なりの価値観が定まっておらず、価値観どうしが衝突することがなかったからだと思う。

価値観の違いは生き方の違いであり、宗教の違いだ。

 

でも僕たちは一緒に大人になった。

価値観を作り上げる人生において大事な時期に一緒にいた。

だから僕たちはきっと同じような価値観を持っている。

特に楽しいと思えること、大事だと思えることについて。

もう気軽には会えなくなってしまうけど、いつか会えたらきっと楽しい時間を過ごすことができるはずだ。

同じポイントで笑えると信じている。

 

僕たちはもうすぐ社会に出る。

これから出会う人たちはそれぞれがそれぞれの価値観を作り上げてきた大人達だ。

もう気の合う友達なんて二度とできないかもしれない。

そんな不安を抱えてしまう今の時期に、似たような価値観を持つ友達が10人もいることがどれほど心強いか、どれほど心を軽くするかやっと分かるようになった。

 

中学生の時、周りに音楽の趣味の合う友達なんていなかったから、いつだって音楽を聞いてる時は一人ぼっちだった。

でも気づけばただ音楽を好きでいたことが10人の大切な友人を得ることにつながった。

あの頃の自分には想像もつかないだろう。

 

夜中にスネアを打ち鳴らしながら走り回ったこと。

ボクシング部の部室に忍び込んでサンドバックを殴りまくったこと。

ギャンブルで財布を空にしてヘラヘラ笑いあったこと。

音楽をするためだけに4泊もしたこと。

どれも僕の今を作り上げる大事な思い出だ。

 

そして、

大きな声で自分の好きな歌を歌うことを許してくれる友達が出来たこと。

傷つけ合うことなく、ぶつかることのできる友達が出来たこと。

忘れたくない思い出を共有する友達が出来たこと。

サークルに所属するすべてのメンバー、そしてなにより愛してやまない音楽のおかげだと思ってます。

今まで本当にお世話になりました。

いつかまた会って楽しく音楽をしましょう。

 

愛してやまない音楽をどこまでも鳴らそうぜ兄弟。

 

 

鯛の卯の花巻き

 

前回の文章から1ヶ月以上間が空いてしまった。

サークル仲間とバカみたいに遊んだこと、旅行のこと、いろいろ書き残しておきたいことはあったけど文章にならなかった。

この2ヶ月は常に終わりの雰囲気が漂っていて、これで最後なんだなって頭の片隅で考えながら過ごしていた。

文章にしてしまったら本当に思い出になってしまいそうで書くのが怖い。

春休みのすべての予定が終わった時に書くつもりでいる。

 

もう一つ僕が考えているのは、その時は僕がなにを思うのだろうってこと。

サークルの引退ライブの最後の1曲が終わった時、彼女との最後の旅行の帰りの電車で、引越しのために家を出る瞬間に、僕はなにを考えるのだろう。

そんなことを考えては寂しくなって、やめていたはずのタバコに手を伸ばした。

タバコはいつでも僕の昂った感情をあやしてくれる。

今はタバコをやめたくてしょうがないけど、きっともう一度大学生活をやり直すことができたとしても僕はタバコを吸う。

友人の愛とニコチンにまみれて死にたいってセリフは一生忘れられないと思う。

 

でも、最後のバイトの日のことだけは書き残しておこうと思う。

忘れたくないからね。

 

先日最後の出勤が終わってバイトを辞めた。

僕はバイトが好きじゃなかった。

バイト先に友達もいないし、仕事もハードだし厳しかった。

でも仕事なんだから楽しくないのは当たり前だと思って4年間続けた。

最後の出勤の日はやっと辞めれるっていうせいせいした気持ちになると思っていた。

でも、少し違った。

最後の出勤の日もやっぱり忙しくて休む間も無く働いた。

やっと仕事がひと段落ついて賄いを食べようと思った時に、料理長が一品作ってくれた。

鯛の卯の花巻きという創作料理。

卯の花というのはおからのことだ。

卯の花は卯月とも言って白い小さな花をたくさん咲かせることから、おからに似ているため、おからのことを卯の花、卯月と呼ぶようになったらしい。

卯月は旧暦で4月のこと。

そこから鯛の卯の花巻きは新しい門出の祝いの料理として振舞われるということを説明してもらった。

 

ふわふわの鯛とホロホロのおからは優しい味だった。

僕は普段はジャンクフードばかり食べているからこういった和食には関心がないのだけど本当に美味しかった。

盛り付けに使った器も普通のお客様に出すような器ではなく、大切なお客様にだけ使う特別な器を使ってくれた。

料理長がいつも言っていた美味しくて綺麗なものを提供するというこだわりを感じだ。

言葉での祝福や、プレゼントでの祝福なんかよりも嬉しかった。

食べ物で幸せになることは今までもあったけど、心が温まるような幸せは初めてだった。

今まで愛情のスパイスなんて物はこれっぽっちも信用していなかったけれども、料理長の優しさが味に現れているような気がした。

 

バイトが終わったあと1時間ほど話をした。

今までの感謝を伝えて、僕のこれからのこと、料理長の今までのこと、働くということについてたくさん話した。

ためになる話をたくさん聞いてもう一度感謝を伝えてその日は帰った。

バイトは好きじゃなかったけど、このバイト先を選んで良かったと思う。

料理長が働いている姿を4年間間近で見ることができた。

僕も社会に出てからこうやって働いていくのだなという覚悟ができた。

これから辛い日々が待っていることを再確認したのにもかかわらず僕は幸せな気持ちだった。

 

あの料理の味を僕は忘れない。

辛いことがあった時、もう何もかも捨ててしまいたくなった時に思い出す、思い出の一つになった。

 

卯の花が咲く頃またいつかこの店を訪れようと思う。

 

綺麗な料理をありがとございます。

4年間本当にお世話になりました。

 

 

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スマホばかり見てしまうあなたへ

 

今の世の中、スマホは衣食住に次いで必要不可欠なものとなっている。

スマホは便利だ。

電話としての機能はもちろんのこと、軽量なカメラであり、人々を熱中させるゲームであり、大容量の音楽プレイヤーであり、、、

とにかく一言で言えば便利なのだ。

スマホ依存なんて言葉もちらほら聞くが、人々がスマホに依存するのも当然だ。

僕なんかスマホを失ってしまえば時間を確認することもできないし、まともに電車を乗り換えることもできない。

 

子供がスマホばかりいじっていて勉強しないとか。

スマホがいじめの道具となっているとか。

スマホが詐欺や架空請求の原因になっているとか。

だからスマホは良くないとか。

そんなスマホ批判をちらほら耳にする。

 

そんな話題に対して僕は、それって的外れじゃないか?って思う。

だってゲームや漫画ばかり読んで勉強しなかった子供たちが時代が変わってスマホに持ち替えたってだけの話だろうし、スマホがいじめに使われているのだって昔から存在するいじめが現代風にアレンジされただけだ。

スマホがあってもなくてもいじめは存在するのだ。

悪いのはスマホじゃなくて勉強をサボる人間だし、イジメをする人間だ。

詐欺や架空請求の原因になっているのだって、交通事故が起こるから車に乗るのをやめようって言っているのと同じレベルだと思う。

それにスマホの利用率は約80パーセント。

一軒一軒訪問して詐欺をはたらくより、スマホを使った方が効率的なのだ。

べつに昔と比べて詐欺師が増えたわけじゃないと思う。

我々にとってスマホが便利なのと同様に詐欺師にとってもスマホは便利なのだ。

それが受け入れられないならスマホなんて持たなければいい。

スマホを利用した詐欺にあうことはないはずだ。

 

ここまで読んでもらって、わかっていただけたと思うが僕はスマホ批判が嫌いだ。

そんな僕が特に嫌いなのは、近頃の若者はスマホばかりを見ていて大事なものを見落としているなんて説教だ。

 

たしかに若者はスマホばかり見ていると思う。

特に顕著なのは駅のホームや電車内だと思う。

スマホの画面ばかり見ていて周りを見ていないのは事実だ。

でも大事なものを見落としているって言うけど、大事なものって一体なんだろう。

景色とかか。

それとも電車内の広告か、周りの人々の顔か。

なんだかんだ色々あって人との繋がりとかを見落としてるって言いたいのか。

 

僕は声を大にして言いたい、そんなものより大事なものがスマホの中にたくさんあるのだ。

たしかにスマホを見ていたら見落とすものもあるかもしれない。

でもスマホでしか見れないものの方が世の中には圧倒的に多いのだ。

電車の窓から見える風景なんかじゃなくて、南極のオーロラも、絶滅してしまった動物も、月のクレーターもこの中にある。

人との繋がりだって。

 

しかし、そんなものはただのバーチャルで実態のない偽物という意見もあるかもしれない。

でも2016年はVR元年と呼ばれるほど、VRやAR、MRが普及した。

電気屋だけではなくドンキホーテなんかでもVRゴーグルが売られるようになった。

VRとはVirtual Realityの略で仮想現実のこと。

ARとはAugmented Realityの略で拡張現実のこと。

MRはMixed Reality の略で複合現実のことだ。

つまり僕たちはバーチャルを現実として受け入れることを良しとし始めているのだ。

さらには近頃は仮想通貨なんてものもが世間を賑わしている。

仮想通貨によって実際にお金を手に入れた人も、お金を失った人もいる。

今の世の中で、バーチャルと現実世界を積極的に切り離そうとするのは賢いとは言えないと思う。

 

すこし話が逸れたけど、 スマホは僕たちの生活にたしかな実感をもたらしてくれる現実だ。

スマホから学んだ大事なこともたくさんある。

スマホでしか伝えられない言葉だってある。

スマホばかり見ていてなにが悪い。

僕たちは現実を受け入れているのだ。

それに現実世界で見たいものはちゃんと見てるしね。

 

以上です。

僕はロボット化とかVRとかの話題が好きだ。

きっと世の中はいい方向に向かっているのさ。

 

パチンコぼろ負け論

 

突然だけど「人生は死ぬまでの暇つぶし」ってなかなか的を得た言葉だと思う。

暇つぶしって言うのは、ある時刻までの時間をなるべく退屈を感じることなく消費しようとする行為のことだ。

僕たちは退屈な時間が嫌いだ。

それは時間が長く感じるからだ。

暇つぶしとは時間を短く感じたいがための行為だ。

僕たちは本質的に時間を短く感じたい生き物なんだと思う。

だってみんな楽しい事をしたいって言うけど、楽しい事をしているとすぐ時間が過ぎるでしょ。

それは結局は時間を短く感じるための行為って考えることもできる。

僕たちは人生を無意識のうちに途方も無い退屈な時間と捉えているのかも知れない。

だからみんな手を変え品を変え、退屈に負けないように、いろんなことにチャレンジしたり、好きな音楽や映画で気持ちをあやしたり、この人と一緒にいると時間があっという間だなぁって感じる人と一緒にいることを望んだりする。

 

時間はひたすらに死に向かって進み続けるのに、時間を短く感じるように努める僕たちにとって、人生は死ぬまでの暇つぶし説は否定しようがない気がする。

 

そんな暇つぶしの人生でも、もしもこの瞬間がいつまでも続けばいいと思えるような瞬間に出会うことができたら。

その瞬間だけは唯一、暇つぶしという大前提から解放され、退屈というフィルターを外すことができて、本当の意味での真っさらな時間を体感できるように思える。

本来、時間というものは退屈でも楽しいものでも美しいものでもない。

無味無臭、無益無害のただの瞬間の連続が時間なのだ。

僕たちが今感じている時間はおそらく、時間というものを正しく捉えられてはいないだろう。

早く過ぎろとか、退屈だとか、時間を流れとしてとらえるのではなく、今、この瞬間のこの時間の一瞬を掴むことが時間を正しく捉えるということではないだろうか。

流れていく時間ではどうしたって余計な退屈フィルターがかかってしまう。

もし人生に意味を求めるなら、永遠に続けばいいと思える瞬間の真っさらな時間で感じたことが僕たちの本当の人生の意味なのではないだろうか。

富士山のてっぺんから景色を見たって、それが曇り空じゃ本当の景色を見たとは言えないのと同じで、人生の意味を考えてみたって、退屈フィルターがかかっていたら本当の人生の意味なんて分からないんだ。

 

上手く伝わるだろうか。

僕は文章を書く力がないと思っているのでいつも伝えたいことが正しく伝わっているか不安になる。

人と話しているとあんまり伝えたいことってないよなって思うけど、一人で文章を書いていると伝えたいことだらけだなって思う。

なんかバンプの歌詞みたいだな。

 

ここから急にパチンコの話になるので興味ない人は読まない方がいいです。

 

そんなことを先週パチンコでぼろ負けした夜に考えました。

僕は別にパチンコ好きじゃない。

実際に1年ぶりだったし。

なぜパチンコに行ったかというとめちゃくちゃ暇だったから。

本も読み飽きたし、ゲオまで行くのも面倒だったから、退屈に耐えかねて近所のパチンコ屋に行った。

3時間くらいいて予定通り3000円負けた。

僕は3時間の暇を潰すために3000円を払ったのである。

僕の周りにもパチンコに通う人は結構いるんだけど、彼らの共通点は無趣味ということだ。

趣味がないということは自分で暇を潰せないということ。

パチンコはお金を払って暇をつぶす行為だ。

パチンコが趣味って人もいるかも知れないけど、僕の知る限りパチンコが趣味な人はパチンコ以外の趣味を持っていない気がする。

多趣味な人の1つの趣味としてパチンコってパターンは聞いたことがない。

だってパチンコって暇つぶしとしては圧倒的にコスパが悪いもん。

他のコスパが良い暇つぶしを知っていたらパチンコなんてしないと思う。

 

とか考えてたら結局、人生について考え始めていました。

前半は結構いい事を書いたつもりだったのにパチンコの話で終わるのは完全に書く順序を間違えたと思います。

パチンコで一番大事なのはやめ時を見極めることです。

この文章もここらで終わっといた方がいい気がするので終わります。

 

 

水の様に優しく 花の様に劇しく
震える 刃で 貫いて
宿命られた 涙を瞳の奥 閉じても
貴方を 瞼が 憶えているの

                                陰陽座甲賀忍法帖