きっと想像した以上に騒がしい未来が僕を待っている
注:長いです。
楽しみにしていたイベントが全部終わった。
今日から4月から必要になるものを用意したり、書類の整理をする。
思い出作りの日々から、働く為の日々に切り替えていく。
以前も書いたけど働くことは辛いらしい。
先輩たちはみんな辛い、辞めたい、学生生活に戻りたいって言っている。
これだけ先輩たちが働く厳しさを教えてくれているんだから、聞き流すだけじゃなくてちゃんと自分の頭で働くことの辛さを考えてみようと思う。
実際に働いてみなきゃ分かんないってよく言うけど、働く前だからこそ考えなきゃいけないことだと思う。
「辛い辛いとは聞いてたけど、実際に働いてみたらやっぱり辛くて辞めたいです」なんてかっこ悪いし、せっかく考える時間が残されているのだから覚悟や対策を固めておいた方が賢いだろう。
僕が思うに大学生活とのギャップが大きな要因だと思う。
大学生に戻りたいなんて話をよく聞くし、これは僕のイメージなんだけど高卒で働いている人はあんまり仕事に対して辛い辛いって言わないような気がしている。
僕の周りだけかもしれないけど。
もしかしたら大学生活と高校生活の違いがヒントになるかもしれない。
以前ツイッターで見かけた、ある高校の校長先生が卒業生に向けた文章を引用する。
大学に行くとは、「海を見る自由」を得るためなのではないか。
言葉を変えるならば、「立ち止まる自由」を得るためではないかと思う。現実を直視する自由だと言い換えてもいい。
中学・高校時代。君らに時間を制御する自由はなかった。遅刻・欠席は学校という名の下で管理された。又、それは保護者の下で管理されていた。諸君は管理されていたのだ。
大学を出て、就職したとしても、その構図は変わりない。無断欠席など、会社で許されるはずがない。高校時代も、又会社に勤めても時間を管理するのは、自分ではなく他者なのだ。それは、家庭を持っても変わらない。愛する人を持っても、それは変わらない。愛する人は、愛している人の時間を管理する。
大学という青春の時間は、時間を自分が管理できる煌めきの時なのだ。
池袋行きの電車に乗ったとしよう。諸君の脳裏に波の音が聞こえた時、君は途中下車して海に行けるのだ。高校時代、そんなことは許されていない。働いてもそんなことは出来ない。家庭を持ってもそんなことは出来ない。
「今日ひとりで海を見てきたよ。」
そんなことを私は妻や子供の前で言えない。大学での友人ならば、黙って頷いてくれるに違いない。
卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ。(校長メッセージ)
2011.03.24
僕はこの文章が答えではないかと思う。
高校生の頃は迷わず部活に所属した。
部活に所属すると放課後の自由な時間を他者に管理してもらうことになる。
授業中にはもちろん、放課後も土日も部活をしていたら自分の時間なんてあるはずがない。
でも別に他者に時間を管理されることに疑問なんて抱かなかったし、それは最高に楽しかった。
だってそれまでの間そうやって生活してきたし、そもそも自由な時間の意味を理解していなかったと思う。
今思えば大学生活は本当に自由だった。
卒業までに124単位を取ればいいという条件以外はなにも制約がない。
授業は自分の好きなように組めるし、休んだっていい。
つまり自分の時間を自分で管理することができたのだ。
僕たちは4年間で自由な時間にすっかりなれてしまった。
社会人になればとうぜん時間を会社に管理されることになる。
だから辛いのだろう。
近年はワーク・ライフ・バランスなんてものが重要視されている。
ワーク・ライフ・バランスは「仕事と生活の調和」と訳されるが、多くの人は仕事と生活の両立、たいていは仕事のしすぎによって生活をおろそかにしないようにする取り組みだと解釈していると思う。
主には残業を減らす取り組みや、有給制度を見直し、働く時間と生活の時間をそれぞれ確立させること。
僕もそう思っていた。
とうぜん会社に管理される時間が減ることになるから、退社後の自由な時間が増える。
だから残業時間を減らしたり、有給制度の確立は確かに有効かもしれない。
しかしこれは正しいワーク・ライフ・バランスの解釈ではないように思える。
ワーク・ライフ・バランスの本来の意味は「仕事と生活の調和」だ。
調和とは全体がほどよくつりあって、矛盾や衝突などがなく、まとまっていることだ。
仕事と生活を切り離すことを意味するわけではない。
だって働いている時間が減ったところで、依然として働いている時の辛さは残っているじゃないか。
働く=辛いという等式を崩さなければ意味がないのだ。
辛さの原因は上に書いたように、自分で自分の時間を管理できないこと。
これはもうどうしようもないことだ。
働くとはそういうものだから。
じゃあ考えるべきは自分で管理できない時間の中で、辛さを感じないためにはどうすればいいのかということ。
そこで必要になってくるのが高校生の時に部活動に励んでいたあの時のモチベーションだろう。
僕が部活動に励んだのは単純に楽しかったからだ。
でも今ちゃんと思い出してみたら、楽しくない時間もあったと思う、先生に怒られている時、早く寝たいのに練習しなきゃいけない時、思うように結果が出なくて悔しいと感じていた時。
でも僕は部活動を辞めようなんて考えたことがなかった。
それが僕のやりたいことであり、僕の生活の一部だったからだ。
つまり主体性を持って、時間を捧げていたのだ。
あの時のモチベーションで仕事に取り組むことができれば多少労働時間が長くても仕事に取り組めると考える。
むしろ報酬がある分モチベーションはあの時より作りやすいのではないだろうか。
結論です。
働く=辛いという等式を崩すのに必要なのは、会社に管理される時間も自分の生活だという自覚を持ち、管理されながらも主体性をもって行動することだ。
ワークとライフのバランスを時間で考えるのではなく、モチベーションでバランスを取る。
それが本当の意味でのワーク・ライフ・バランスだと思う。
与えられた仕事の中で主体性を持つのは難しいと思うかもしれない。
でも僕たちは大学4年間で主体的に遊んで、主体的にバイトして、主体的に恋愛してきたじゃないか。
主体的に動くことを僕たちはスキルとして身につけているはずだ。
バカ高い学費はこのために払ったんだと思え。
管理されるのは時間だけだ。
モチベーションまで管理されるわけじゃない。
400万払って身につけたスキルなんだ。
腐らせて無駄にするな。
これが僕なりの働く辛さに対する覚悟であり対策だ。
今僕の考えていることはこんな感じ。
すでに働いている人からは共感を得ることはできないかもしれないけど、僕はそうやって働いていくつもりだ。
働いてみて僕の考えが間違っていたらまた考え直すだけだ。
働くために生きてくんじゃなくて、生きてくために働くんだ。
働くことなんてある意味でご飯を食べたり、歯磨きをするのと同じだ。
どうせなら楽しく歯を磨こうぜ。