正しくないけど不正じゃない
最近なんだか引用の少ない人生になってきたなあって思う。
ブログを書き始めて約7ヶ月。
久しぶりに今まで書いた文章を読み返してみたんだけど、最近の文章は少し変わってきたなって思う。
それはいい意味で。
今までの文章はなんだか必死に背伸びをして、自分の考えの正しさを確かめるために誰かの言葉を借りているような感じがする。
それが悪いわけじゃないんだけど、正しいことを言おうとへんに力んでいてあんまり生活感がないというか、本当の意味で自分の頭で考えていないように思えてしまう。
でも最近は力も抜けてきて生活の中から得た確かな実感を言葉にできているような気がする。
誰かの言葉、誰かの考えじゃなくて自分の言葉と考えを文章にできていると思う。
これは別に文章だけが変わったわけじゃなくて僕の生活というか生き方そのものが変わったんだと思う。
たぶん、その理由は就活が終わったこと。
就活中はよく「自分はいったい何者なのか」という悩み、問いを耳にした。
僕は就活とは成果を出すことが全てで、そんなことを悩んでいるのは時間の無駄だし、必要ないと考えていたので「自分はこうゆう人間だ」と決めつけてスーツを着ている時だけはその人格を全うしよと考えた。
実際にその通りに就活をして内定をもらった。
まわりの人間には「20年も生きていれば自分のことなんて分かるよ」って言っていたな。
実際には何にも分かっていないのに。
就職活動には僕なりのコツがあった。
優先順位を「常識≧自分の考え」にすること。
常識とは目に見えない正しさのこと。
常識からはみ出ることなく自分の意見を言うことが大切。
例えば就活における模範解答はいろんなところで教えてもらえる。
ネットを調べれば正しいエントリーシートの書き方もわかるし、面接の受け答えなんかも大学で教えてもらえる。
その通りに受け答えするのは誰でもできるから個性がなくなってしまう。
常識からはみ出ることなく自分の意見を言うのは別解を示すのに近いかもしれない。
模範解答と結論は同じだけど算出過程が違う。
その作業は模範解答を導き出すより強く正解を意識しなければならない。
僕は就活が得意な人間だった。
でもそれはけん玉が得意ってのと何が違うんだ。
就活が得意なのと人間的魅力は一切の関係がない。
だからさっさとスーツと一緒に就活をしていた時の意識を脱ぎ捨てなきゃいけなかったんだ。
僕は結局何ヶ月もスーツを着たままだった。
だから僕の書く文章はなんだか正しさばかりを意識した面白くない文章になっていたんだ。
「理論武装」という言葉がある。
自分の立場や主張を他人の批判から守るために、さまざまな理論を準備しておくことだ。
正しさを持たないことは心ぼそい。
正しさを求めることは正しいことだ。
でもそんなのつまらないじゃない。
正しさというネクタイを締めたままじゃ息苦しいよ。
正しさで角ばった言葉なんかより自分の頭で考えた言葉が聞きたいよ。
「正しい」の反対の意を持つ言葉は「不正」じゃない。
「正しくない」でなければならない。
昨日『ダークナイト』を見ていたら、字幕では「銃を準備しろ‼︎」って表示されているのに役者は「Rock&Roll‼︎」って言っていた。
僕は面白いと思う。
正しくないけど不正じゃない言葉。
この前久しぶりに学科の友人と会ってご飯を食べた。
「卒業してもまたみんなで集まろう」って話をした。
でも僕はバラバラになった僕らが全員で集まることは二度とないだろうなって皮膚感覚で分かっていた。
そこで正しにこだわって「いや、卒業してしまったらみんなで集まるのは厳しいよ。」って言うことになんの意味があるのだ。
「その時は奥さん連れてくわ!」って嘘ついて答えた方が面白いじゃん。
正しさと正しくなさの間にユーモアが生まれて、そのユーモアにその人の思考や言葉があるんだ。
だから面白いんだ。
なんてちょっと尖った文章を書いているのは、ダークナイトのジョーカーと時計じかけのオレンジのアレックスに当てられたからです。
彼らの正しくない感じがすごくかっこよかった。
書くこともなくなってきたのでそろそろ終わります。
色々書いたけど清く正しく生きていくことも大切です。
色々書いたけど。
Rock&Roll‼︎(読んでくださり有り難うございます。)
正しいも正しくないも意味はないのさ
君はすてきだ!困った顔がよく似合う
ふくろうず〜ごめんね〜