魂の積分。もしくは微分。
今日バイト中に魂を見た。
ちょっと大げさに聞こえるかもしれないけど、まぁとりあえず書いていきます。
今日もいつも通りバイト先の厨房には怒声が鳴り響いていて、僕はいつも通り見て見ぬ振りをして、いつも通りことが収まるのを待っていた。
若い社員が先輩社員にずっと怒鳴られていた。
いつもならしばらくすれば落ち着いてきて、決して楽しくはないけど辛くもないみたいな時間になる。
でも今日はそうはならなかった。
怒鳴られ続けた若い社員が小さな声で「そんなに怒らないで」って言った後に急に大きな声をあげて泣き出したのだ。
本当に漫画みたいに「うわーん」って泣いていて僕はとても驚いた。
自分より年上の男が仕事中に声をあげて泣いているっていう状況は精神的にかなりキツイものがあって、数時間経った今でも落ち込んでいるんだけど、僕は不思議と少し感動していた。
彼だって立派な成人男性なんだから人前でわんわん泣くなんてことは絶対にしたくないはず。
だからきっと泣こうと思って泣いたわけじゃなくて本当に自分を抑えることができなかったんだと思う。
きっと人には処理できる感情の量に限界がある。
そのキャパシティーを超えた時、人は感情を体の外に逃すしかなくて、体の外に出た感情は自分の意思とは無関係に言動として発散される。
だからその言動は感情そのもので、理論性は全く含まれない。
今回だったら、怒られたことで苦しさ、悲しさの量が感情のキャパシティーを超えてしまって体の外に溢れ出してしまったんだ。
だから彼の声をあげて泣くっていう行為は溢れ出した苦しさ、悲しさそのもので僕は彼の魂を垣間見たような気がして感動したんだと思う。
小さい子供がよく泣くのは感情のキャパシティーが小さいからで、大人になることでキャパシティーは大きくなって行く。
だから、大人が泣かないのは別に大人になれば強くなるわけじゃなくて、キャパの量が増えただけなんじゃないかなって思う。
小さい子供が転んで泣くのは痛いという感情がキャパを超えてしまうから。
でも大人が転んだくらいでは泣かないのは、別に大人になれば痛みを感じなくなるわけじゃないでしょ。
痛いけど大丈夫ってだけ。
友人のブログで元町夏央という漫画家の、『熱病加速装置』という短編漫画が紹介されていてた。
その中に「人のさ、ギリギリの瞬間って、素敵だよね」っていうセリフがあるらしい。
人の感情は決して覗くことはできない、僕らは他人に心があるのかさえも確かめることができない。
でも、感情が溢れ出した瞬間だけ僕たちは人の感情を目で見ることができる。
それ以外に人の魂を確かめることってできないんじゃないかな。
だから『熱病加速装置』の台詞みたいに人のギリギリの瞬間は素敵なのだ。
『世界の中心で愛を叫ぶ』の一番有名なシーンで、倒れた長澤まさみを森山未來が抱きかかえて、助けてくださいと叫ぶシーンがある。
あれはまさに感情が溢れ出す瞬間を描いたもので、だからこそ日本中が感動してあのシーンに涙を流したのだ。
感情が溢れ出すのを見るから感動するんじゃなくて、魂を見ることができるから感動するってこと。
一個前の記事で夢と魔法を信じなくなった人間が感動するには愛か情熱しかないって書いたばっかりだど、魂も追加しときます。
そういえば先日ホドロフスキー監督の『リアリティのダンス』という映画を見た。
正直にいうと内容は半分も理解していないと思うけど、人間の魂の一番濃い部分をいろんな角度から見せつけられたような気がしてすごく感動した。
もうすぐホドロフスキーの新作『エンドレスポエトリー』が公開されるから楽しみ。
先ほどちょっと調べて見たら僕が書いたようなことを精神医学界では感情失禁というらしい。
精神医学界なかなかユーモアあるやん。
追伸
よく映画とかで殺人犯が「もっと悲鳴を聞かせてくれ!」っていうのは他人の魂が見たくて見たくてしょうがない感情失禁フェチなのかなって思いました。