おやすみプンプンで神様が言っていた《寂しさ》について

先日、彼女に貸していたおやすみプンプンが帰ってきたので10時間くらいかけて一気読みした。
相変わらず凄い漫画だ。
読むのは2回目で大体一年ぶりくらいなんだけど、初めて読んだ時よりいろんな意味で圧倒された。
僕がこの1年でバカみたいに本を読みまくったせいで何となくこういった作品をまともに読めるようになったからだと思う。
まぁマンガの素晴らしさを書きたいわけじゃないから前置きはこれくらいにして本題に入る。
 
2巻の中盤くらいで神様のセリフにこんなものがある、
 
「人が人として生きている以上、絶対に埋められない寂しさがあるよね、」
 
僕はこのセリフを初めて読んだ時にものすごい衝撃を受けた。
この言葉に影響を受けまくった大学生活を送っていると言っても過言ではない。
 
神様はこう続ける
「人がどれだけ求め合っても傷つけ合っても、完全にわかり合えないのだとしたら、一体何を信じてゆけばいいのだろう?なんてね」
 
神様の言う寂しさの正体とは、人と人がわかり合うことの困難だ。
この寂しさを以後《寂しさ》と表記する。
 
ところで野口あや子の短歌に次のようなものがある。
 
私には私の心臓しかなくて駆ければ不作法に鳴るさみしさよ  
 
僕はこの短歌はまさしく《寂しさ》について書かれたものだと思う。
私には私の心臓しかなくて、、
つまり私が理解できるのは私のことだけ、この気だるさも、このウキウキも、このセンチメンタルも全ては私専用のものであって決して誰かが共感できるものではない。
なぜなら僕がどれだけあなたを観察しても、どれだけあなたの言葉を集めても、どれだけあなたの感触を確かめても、それは単なるあなたのアウトプットにしか過ぎないのだ。
たとえ仮にあなたの心を100%完璧に表す言語でそれを僕に告げようと、それはあなたの口、空気、僕の耳を媒介してしまう。
それはもうあなたの心とは別物だろう。
 
ここで言う、あなたとは不特定多数の自分ではない人間のことだ。
 
駆ければ無作法に鳴るさみしさよ、、
そして野口あや子は《寂しさ》からさらに発展する。自分自身の心さえ自由にすることは出来ない身も蓋も無い境地に達するがそこは置いておこう。
 
つまり何が言いたいかと言うと、《寂しさ》ってマジでどうしようないって言うこと。
じゃあいったい何を信じていけばいいんだろなんて考えちゃダメなんだと思う。
だってどうしようもないんだから。
 
でもこの1年でたくさんの本、映画、音楽に触れてきて気付くけど、意外とこの《寂しさ》について書かれた作品は多い。
本当にいろんな作品でいろんな人間が言葉を変えストーリーを変えメロディーを変えて表現している。
みんな《寂しさ》を抱えているんだよ。
 
僕はそんな作品が大好きだ。
とにかくいろんな人の《寂しさ》を読んだり観たり聞いたりしてればそのうちなんかわかる気がするから。
だってどうしようもない《寂しさ》は消すことが出来なくても、紛らわすことなら出来るかもしれないから。
 
っていう心にもない綺麗事でそろそろ終わろうと思う。
 
最後に海援隊の『人として』っていう曲の歌詞を抜粋。

思いのままに生きられず 心に石の礫なげて
自分を苦しめた 愚かさに気付く
私は悲しみ繰り返す そうだ人なんだ
人として人と出会い 人として人に迷い
人として人に傷つき 人として人と別れて
それでも人しか 愛せない
 
神様が言った「人が人として」って部分は難し過ぎて正直よくわかんないけどさ、この曲みたいにもしかしたら《寂しさ》を抱えていることが人が人であるための必要条件の一つなのかなぁ。