本を読むのは楽しいことだ。

 

中島らもの『心が雨漏りする日には』というエッセイを読んだ。

読むのは2回めで最初に読んだのは多分1年半くらい前だ。

僕は基本的に一度読んだ本を読み返すことは殆どない。

今までに2回読んだのは太宰治の『人間失格』と本谷有希子の『生きてるだけで愛』の2冊だけだったはず。

そもそも僕はもともと本が読めない人間だった。

本が読めないことがコンプレックスであり、これではいけないと思い20歳の正月から本を読み始めた。

それまでは教科書以外の活字を読むことはなかった。

いったん本を読み出すと今までの本嫌いが嘘のようにたくさんの本を読んだ。

 

今まで読まなかった分を取り返すように僕はバカみたいに本を読んだ。

去年は1年間で約100冊読んだ。

本好きの人にとって年間100冊が多いのか少ないのか分からないが3.4日に1冊のペースだから今までの20年を考えれば異常なスピードだ。

1冊読み終えると余韻に浸る間も無く次の本を読むことも多かった。

読み終わった本が本棚に並んで行くのがとにかく嬉しかったのだ。

残念ながら教養になっている気はしないが、携帯をいじって1日を終えるよりは本を読んで1日を終えた方が気持ちがいい。

そんなスピード重視の読書をしているわけだから当然一度読んだ本を読み返すことはなかった。

 

しかし、最近は本を読むペースも落ち着き一冊読み終わるとその本について考える時間も増えてきて、今までとは違った楽しみ方もするようになった。

そこでふと考えてしまったのだが、僕は今まで1冊の読むにあたってその本の内容をどれほど理解していただろう。

もちろんスピード重視な読み方をしてきたが理解できない部分は何度も読み返したし、よっぽど難解な内容でない限り作者の言いたいことはわかったつもりでいた。

でも、もしかしたら読み落としていた文章があるかもしれない。

それにたくさんの本を読んだ今なら違った受け取り方もあるかもしれない。

そう考えて今まで読んだ本を読み返してみることにした。

 

そして選んだ本が冒頭に書いた中島らものエッセイ。

なぜ中島らものエッセイかというと僕が初めて好きになってエッセイや小説を集めた作家だからだ。

そのなかから適当に一冊選んで今日読み返した。

 

このエッセイは中島らも躁鬱病の闘病日記みたいなもので、彼の文章はとてもセンシブルなのにロジカルだから躁鬱についての体験や体験から得た考え方がとても分かりやすく、そして面白おかしく書かれていて文句なく面白かった。

読み返すにあたって内容については見落としていた部分はなかったように思えるが2回めともあって新しい発見が1つあった。

 

この本と今まで読んだその他のたくさんの本が繋がるのである。

ある文章を読むと、「あれ、あの作家も同じようなこと言っていたな」「あ、この話はあの本でも書かれていた!」といった具合に。

だからなんだと言われたらそれまでだけど、僕はそれがとても楽しかった。

僕にとって中島らもは奇想天外で唯一無二の人だけど実は同じようなことを考える人もたくさんいて、それを違う言葉で表現している人がいる。

頭の中は宇宙より広いってよくいうけどその宇宙は別の宇宙と重なり合っていて重なった部分を、違った場所から違った望遠鏡で覗く。

見ているものは同じだけど見え方は違う。

そんな当たり前のことに感動したのだ。

 

読み返さなければ気づかなかったことだから、読み返してみてよかったと思う。

最近は本を読むペースも落ちてきてもしかしたら僕はこのまま、また本を読まなくなるのではと思っていた。

だけどそんなことはないと今日確信した。

僕はこれからも本を読む。

 

本を読むのは楽しいことだ。

 

 

 

暇つぶしにかなり適当に書きました。

 

もうすぐバイトが始まるのでバイト先の近くにあるマックにいます。

暇をつぶすために今この文章を書いています。

昼食を食べていなかったので月見バーガーが食べたかったのですが、結局100円のハンバーガーにしました。

僕は大学生活4年間ずっとマックでは100円のハンバーガーを食べてきました。

いうまでもなく安いからです。

最近ふと、僕は就職して金銭的に余裕ができてもこのまま100円のハンバーガーを食べ続けるんだろうなって考えます。

つまり僕はお金がないからハンバーガーを食べているのではないのです。

一言で言えば僕がケチだからなんだと思います。

僕は自分の納得していないものにお金を使うのがとても嫌いです。

提示された代金と自分にとっての価値が釣り合っていない時には何かを買うことはないです。

しかしお金が大好きというわけではありません。

お金持ちになりたいという野望もないし、脱税するほどの根性もありません。

お金は人間の持っているもので唯一数値化できるものだと思っています。

唯一は言い過ぎですが。

自分自身の価値基準を明確に生きていたいのです。

 

そういえばドレスコーズが『ゴッホ』という曲で、お金って愛の数値化だ!みたいなことを言っていました。

これまた言い過ぎな気もしますが。

とにかく現代社会に生きてるからには今を生き延びるすべを身につけなくてはいけなくて、そこでは価値はお金で表すのがほとんどだから何事も自分自身の価値尺度をお金に置き換える必要があると考えます。

敬語なんて使って真面目な雰囲気を出してはいますが殆ど頭を使わずに書いているのできっと明日には全然違うことを言っていると思います。

愛でさえ数値化できるほどのしたたかさも必要になってくるのかもしれません。

 

僕の地元の友人達はギャンブルや風俗が好きなのでたくさん稼いでは一瞬で消費します。

僕はギャンブルというシステムも風俗というシステムも結構だとは思うのですが、お金で考えた時に自分の価値と代金が釣り合っていないのでギャンブルも風俗も嫌いです。

ギャンブルで負けてお金がなくなるとめちゃくちゃムカつきます。

 

そろそろバイトの時間なので終わろうと思います。

そういえば愛はコンビニでも買えるけれどもう少し探そうよと歌っていたのはスピッツです。

 

あなたはコンビニで買える愛にいくら払いますか?

 

僕は600円くらいですかね。

以上です。

 

RADWIMPSを聞いています。

 

最近彼女のことが好きすぎてラッドの3枚目と4枚目のアルバムを聴きまくっている。

半分は本気だけど、半分は友達に「最近彼女のこと好きすぎてラッド聞いてんねんww」って言いたいがため。

なんでラッドかっていうと、この頃の野田洋次郎が「彼女のこと死ぬほど好き好きマジ好き」みたいな曲ばっかり作っているから。

ラッドといえば僕が中高生の頃に流行ってたんだけど『君の名は』の影響で少し前からまた中高生の間でブレイクしている。

 

なんでこんなに中高生に受けるのか考えたんだけど、たぶん野田洋次郎の描くラブソングには僕と彼女しか出てこないからだと思う。

僕と彼女だけが世界の全てで、そこには大人たちの理屈も社会の常識も届かない。

いわゆるセカイ系

大人になるとね、手をつないでもキスしてもセックスしても恋人になれるとは限らないのよ by 銀座線4番ホーム

ツイッターにこんなツイートが流れてた。

大人になれば好きだけでは一緒にいられないなんて話は飽きるほど聞くし、社会を経験している分、世界が広がっているから彼女以外のものも考えなきゃいけない。

セカイ系の恋愛ができるのってやっぱり中高生までで、学校という狭いコミュニティの中では彼女ができたらそのことしか頭にないだろうし、いくらでも彼女と一緒にいる時間はあるもんね。

だからラッドは中高生に受けるんだと思う。

 

セカイ系という言葉を使ったけど僕はこの言葉をちゃんと理解してないから使い方間違ってるかも。

調べてみてもいまいちピンとこないし、いろんな考え方があるみたい。

 

よく分かっていないけど、ラッドの『有心論』は絶対にセカイ系の曲だと思う。

 

だって君は世界初の肉眼で確認できる愛 地上で唯一出会える神様

誰も端っこで泣かないようにと 君は地球を丸くしたんだろう?
だから君に会えないと僕は 隅っこを探して泣く 泣く

誰も命 無駄にしないようにと 君は命に終わり作ったよ
だから君がいないその時は 僕は息を止め 待つ

 

恋は盲目なんて言うけどそんなレベルじゃない。

彼女のこと好きずきて彼女が神様になっちゃってる。

いや比喩的な何かだってことは分かってるけど、それにしても凄い歌詞だ。

どれだけ狭い世界で生きてようが、どれだけ彼女のことが好きだろうが、こんなこと考えるのは野田洋次郎だけだと思う。

 

この心臓に君がいるんだよ 全身に向け脈を打つんだよ
今日も生きて 今日も生きて そして 今のままでいてと
白血球、赤血球、その他諸々の愛を僕に送る

 

もうよく分からない。

雰囲気だけで歌詞を書いているような気さえしてしまう。

神様が意味することと、心臓が意味することって全然違うと思う。

なんか批判ぽくなってきたけど僕はこの曲好き。

今となっては冷静に歌詞を見直してみて唯一無二感が面白いけど、高校生の時はこの歌詞が凄く正しいことを言っているように思えたし、これが僕にとっても理想だった。

 

そんなわけで(?)最近はラッドを聞いています。

いろいろ書いたけど単純に昔好きだった音楽を久しぶりに聞くのが楽しいです。

昔の気持ちを思い出したり、新たな発見もあったりで他にも高校生の時に好きだった「ふくろうず」、「amazarashi」、「over the dogs 」「up lift spice」なんかも聞いてみようと思います。

こうやってみると今と全然音楽の趣味違うな。

 

 

 

 

君が誰かの彼女になりくさっても

 

奇妙礼太郎トラベルスイング楽団の『君が誰かの彼女になりくさっても』という曲のライブ映像を見た。

 

バンド名が長いから奇妙礼太郎楽団って書くけど、奇妙礼太郎楽団は奇妙礼太郎という変な名前のおじさんがボーカルのバンドでバックに管楽器、鍵盤、パーカッションなどのさまざまな楽器がある大きなバンド。

もともとはロックバンドをやっていた人だから歌い方がロックで楽器達はジャズっぽい編成だから、そんなバンドがポップスをやっていてとても面白い。

 

奇妙礼太郎の絡むバンドって結構ややこしくて、『君が誰かの〜』は僕の知ってるだけで天才バンド、ワンダフルボーイズ、奇妙礼太郎楽団の3つのバンドが演奏してたと思う。

で、誰が作った曲かというと奇妙礼太郎ではなくて天才バンドのベース、キーボード担当のsundayカミデという人らしい。

 

ややこしくてめんど臭いから説明はこれくらいにしといてライブ映像の話に入る。

どうやらお客さんが客席の最前列で撮った映像のようで画質も音質もあんまり良くない。

岡山でのライブらしい。

その映像はライブの最後の一曲が始まる少し前のMCから始まっていて奇妙礼太郎がひどい下ネタを言い散らかしてから『君が誰かの〜』の演奏が始まる。

「バンドメンバーに大きな拍手を、みなさんにも大きな拍手を、そしてこの夜に一番大きな拍手を」

そう言ってから奇妙礼太郎が歌い出す。

ずっとずっと君が好き

誰かの彼女になりくさっても

力強いのに優しくて、乱暴なようで繊細な歌声がバックのたくさんの楽器達と合わさって、ハーモニーとはこのことかって思わされる。

Aメロを半分歌い終えたところで奇妙礼太郎の指示で照明が全て消される。

真っ暗でステージは何も見えなくなるが、ここでもしょうもない下ネタを言ってお客さんを笑わせている。

もう君の髪には触れられないよ

夜中の電話もできないよ

今頃どうしてるかな

優しい人に出会えたかな

この曲は歌詞がとても良い。

曲を作ったsundyカミデは本当にあったことしか歌詞にしないらしく、そのせいかぐっとくるようなロマンチックなフレーズは出てこないんだけど全体を通して、頭のどこにもぶつからずに聞いた瞬間にすぐに心の一部になってしまうような歌詞になっている。

奇妙礼太郎が照明を消させた理由が分かるような気がする。

この曲を聞いていると今までの記憶が映像となり頭の中で流れる。

失恋ソングなんだけど不思議と悲しい気持ちにはならなくて、むしろ懐かしくて優しくて暖かい気持ちになる。

小さい頃に大好きだった映画をこの歳になってから久しぶりに見た時の気持ちみたいな。

 

サビになるとバックの演奏の音圧が一気に上がる。

それに答えるように奇妙礼太郎も熱唱する。

ずっとずっと君が好き

今頃誰かと暮らしてても

熱唱ってただ声を張り上げることじゃなく、ただ顔を歪めるて歌うことでもなくて歌詞に対して自分の思いをぶつけることなんだと気付かされる。

1番のサビが終わると短い間奏があってそこで奇妙礼太郎が短くお客さんに感謝を述べる。

そしてひと息つく間もなくサビの熱量を保ったまま2番が始まる。

 

ここからはもうあんまり言うことがない。

でもそれは言いたいことがないわけじゃなくて感動を上手く言葉にできないってこと。

ただ1番以上に素晴らしいってことだけ書いとく。

 

残念なことに奇妙礼太郎楽団は2年前に解散してしまっているらしい。

僕はこの曲しか知らないんだけどライブに行きたかった。

暗くなった会場で演奏に浸りたかったし、下ネタばかりのMCで笑いたかった。

ともあれ今はこの映像に出会えたことを嬉しく思う。

 毎日は見ないけど、ふと思い出した時に見ようと思う。

 

もう1つ奇妙礼太郎楽団が『君が誰かの〜』を演奏しているライブ映像が動画サイトにある。

そっちはちゃんとカメラマンが撮っているしちゃんとした録音がされているから見やすくて聞きやすいんだけど僕はこの文章で書いた映像の方が好きだ。

 

 

 

 

憂、燦々

 

今日は本当は大学の研究室に行くつもりだった。

でも土曜日だから研究室は空いてなかった。

4年生になっても土曜日は大学に入れないってことも知らないなんて自分に嫌気がさす。

することもなくなったので近くの喫茶店に入ってこの文章を書いている。

 

最近はすっかり夏の匂いが薄まってきて、気候的にも周りのテンション的にも秋が近づいているなと感じる。

あと2週間もしないうちに最後の夏休みも終わってしまう。

この時期になると日本中の大学4年生の共通の憂鬱は卒論になる。

夏休みにある程度卒論を進めるのが正しい夏休みの過ごし方なんだろうけど正しく過ごしている人なんてほんの一部だろう。

例に漏れず僕のゼミも夏休み中にある程度進めて新学期が始まったら実験に取り掛かることになっている。

当然僕はなにもしていない。

 

僕は理系だからゼミ活動じゃなくて研究って言うんだけど。

やりたいことがあって研究室に入って、入ったばかりの頃は研究が本当に楽しかった。

たくさんの論文を読んで自分の研究のアイデアに結びつけて教授に相談するのが面白かった。

でも今では研究が本当に億劫だ。

理系的な考え方やルールを学んで行くうちにどんどん自分のやりたかったこととかけ離れて行って今では少しも面白いと感じなくなってしまった。

初めて自分のやりたいことと自分のやらなきゃいけないことが一致したのに、今ではやらなきゃいけないことだけが残ってしまった。

よく言う理想と現実のギャップってやつだと思う。

 

僕があの時考えていたアイデアは机上の空論どころか理系の世界では研究の土俵にもたっていなくて、このままあの時のアイデアは死んでしまうのかなって考えるととても虚しくなる。

 

やらなきゃいけないことがあるんだからこんなどうしようもないこと言ってないで手を動かさなきゃって思うんだけど、それも行き詰まっている。

イデア勝負で行くつもりだったから今まで真面目に勉強してこなかったツケが回ってきて身動きが取れない。

なんで研究室の同期は習ってもいないプログラミング言語を使えるのか、なんで何十万円もする複雑な装置を使いこなせるのか、とても不思議だったけどそれは今までの勉強の積み重ねがあるからだって気づいた。

 

とここまで書いてみてこれも言ってもどうしようもないってことに気づいて、やっぱり手を動かさなきゃって思った。

とりあえず来週はできるだけたくさん研究室に行こう。

1から全部始めよう。

 

昨日幸せなことがあったぶん、きっと憂鬱に敏感になり過ぎてしまっているんだと思う。

来週から頑張るぞって決意するために1000文字も書いた情けない自分と今日はたくさん向き合おう。

こんなしょうもない憂鬱も忘れたくないから文章にして公開します。

 

すごく関係ないけど今日9月9日はエルレガーデンにとって重要な日らしいです。

『No.13』という曲に9月9日という歌詞が出てくるそうな。

僕は『金星』という曲が好きです。

 

最後に笑うのは正直な奴だけだ
出し抜いて 立ち回って
手に入れたものはみんな
すぐに消えた

ねぇ この夜が終わる頃 僕らも消えていく
そう思えば 僕にとって 大事なことなんて
いくつもないと思うんだ

 

ELLEGARDEN『金星』

 

 

 

話したいことがたくさんあるんだ

 

ブログを始めて約5ヶ月がたつ。

最近はなにか物事を考えるときに頭の中で文章を書くように考えるようになった。

以前はぼんやりと頭の中で誰かに話すように考えていたような気がする。

あんまり変わらないように思えるけど、ぜんぜん違って、僕にとって書くように考えるってことは自分の中のとりとめない沢山の思考や感情を文章でつなぎ合わせて1つにするイメージだ。

まるでプラモデルを組み立てるみたいに。

プラモデルの部品が思考や感情の1つ1つで、書くというのはそれらを組み立てること。

 

それに対して話すように考える時は沢山の思考や感情を顕微鏡で覗くように確かめるイメージ。

こんどはプラモデルの部品じゃなくて1つ1つの思考、感情は自然界に存在する生き物や気候みたいなものだ。

その正体をじっくり観察するのが話すように考えるってこと。

 

僕はいま話したいことがたくさんある。

話すように考えるわけではなく純粋に話したいんだ。

 

僕にとって頭の中の感情を言葉にするっていうのは、意味を限定すること切り取ること。

言葉にならない部分は死んでしまう。

なんとなくモヤモヤするこの感じを上手く説明できないから憂鬱なんて言葉で閉じ込めてラベルを貼る。

僕にとっての憂鬱と、その他の人にとっての憂鬱はまるで別物なのに。

全国のコンビニに売っているカルビーのポテトチップスは値段と内容量は一緒だけど中身は一袋一袋ぜんぜん違うはずだ。

ポテチ一枚一枚の大きさも違うし、原料となるジャガイモも何万個のうちの1つから出来てるわけで当然味も違うんじゃないかな。

だけど僕らはそんなことは気にせずに全て同じカルビーのポテトチップスとして食べている。

言葉についても僕が持っているイメージは人それぞれなのに、言葉というラベルで1つにしてしまう。

だから自分の頭で考える前に言葉にするっていうのはすごく危険な行為のように思える。

 

でもそんなことより今は話しを聞いて欲しい。

この1週間はバイトも読書もせずに高校の友達や大学の友達と遊びまくった。

その中でたくさんの感情が生まれた。

そして少しだけ足を止めて考えるようなこともあった。

 

言葉によって形を変えてしまった感情でも、僕が伝えたいのはただ楽しかったよってことだけだからそれで良いんだ。

それを忘れてしまう前にあなたに伝えることができたら、楽しかった思い出がもっと楽しい思い出になると思うんだ。

僕は今ミスドにいるから、ミスドで例えるとオールドファッションは美味しいけどチョコファッションの方がさらに美味しいみたいな感じで、あなたに話すことで楽しかった思い出にチョコをかけてさらに楽しい思い出にする。

 

そんなバカみたいなことを考えながら8月31日を過ごしています。

明日から9月です。

金髪にしていたこの髪も今日の夜には黒髪に戻そうと思います。

大学4年の夏休みは人生最後の夏休みって言われるけど、たしかに今年の8月を思い返せばエンドロールに流れるダイジェストのように、なぜか今まで過ごしてきた全ての夏を余計に思い出してしまいます。

楽しかったこと辛かったこと、意外にも僕には沢山の思い出があって驚いています。

そういえば僕は大学生活では一度も花火大会に行きませんでした。

心残りといえば心残りですが、花火大会に行かなかったことさえも僕にとっては良い思い出です。

 

8月は夢花火

私の心は夏模様

 

井上陽水『少年時代』

 

 

 

ズルしても真面目にも生きてゆける気がしたよ

 

昨日の夜から今日の夜にかけて高校の部活仲間数人と少し遠出して遊んだ。

全員とはいかなかったけど久しぶりにまとまった人数で集まることができた。

 

僕は以前どこかの記事でユーモアを働かして楽しみを見つけるのが好きって書いたと思う。

その考え方みたいなものは間違いなく高校生の時に部活仲間たちと築き上げたものだ。

高校を卒業してから4年が経とうとしているけどみんなその精神は変わっていないようで本当に楽しかった。

彼ら以上に楽しむことについて真剣な人たちを僕は知らない。

 

当時の僕たちは酒も車も、お金も必要とせずに楽しいことをたくさんしてきた。

楽しむことを楽しむことに必死だった。

自分たちで考えたオリジナルのゲームが数種類あったし、高校の最寄りのスーパーは最高の遊び場だったし、食べ物で遊ぶのも大好きだった。

ああでもない、こうでもないと頭をひねって楽しいことを探すのが最高に楽しかった。

楽しむことを楽しむってのはそういうことだ。

単純にする楽しさ、何かをバカにする楽しさ、へり下る楽しさ、近道する楽しさ、遠回りする楽しさ、繰り返す楽しさ、足し引きの楽しさ。

すべて彼らと共に学んできた。

 

大学に入ってからできた友達とは酒飲んだり車に乗ったりお金使ったりと、楽しさの種類は増えたけど以前のように楽しむことを楽しむことはなくなってしまった。

 

久しぶりの彼らにあって本当に楽しかった。

23時、キャンピングカーをレンタルして海へ向かった。

移動中のBGMにスピッツの『青い車』という曲がぴったりだと思った僕はCDを持っていた。

もう1人同じCDを持ってきていて、ひとしきり笑った後に考えることは同じだなって思った。

途中で食料品を買うためにスーパーに寄った。

生の鮎が売られていたから、焚き火を起こして焼いて食べようって話になった。

バーベキューじゃないんだから上手く焼けるわけないんだけど僕らにとっては美味しく食べられるかどうかなんてどうでもよくて、鮎で遊んだら楽しそうだなって思いついただけだった。

だいたい3時間くらいで目的地に着いた。

僕らは火を起こして焚き火をした。

焚き火を囲んで、星を見上げて、鮎に割り箸突っ込んで焚き火の周りに刺してみたり、僕らは朝日が昇るまで砂浜で遊びまくった。

鮎は意外と美味しく焼きあがった。

後から気づいたんだけどその砂浜は世界文化遺産に登録されているらしい。

それに気がついた僕らは世界文化遺産で鮎焼いて食べたという自分たちのならず者っぷりに大はしゃぎしていた。

朝日が昇ってくると、太陽と空と海の景色を見て、その景色はいったい何色なのかってことを話し合った。

 

朝日が登り切るとすることがなくなったので僕たちはキャンピングカーに戻ってホットケーキを焼くことにした。

買い物の時にただ焼くだけじゃ面白くないなって思って青色の食紅を買い物カゴに放り込んだ。

女の子たちがヘラヘラしながら生地に食紅を混ぜて青色のホットケーキが出来上がった。

粘土みたいな見た目になって全く美味しそうじゃなかった。

僕たちは大袈裟なくらい不味そうに食べて、たくさんたくさん笑った。

 

来年からサラリーマンになる人 、教師になる人、留年して卒業できない人、大学院に行く人、バンドマンになる人、海外に行ってしまう人

高校を卒業してから大学に進学した僕らは半年後にはそれぞれ全くバラバラの道を進む。

もしかしたらもう二度と合わない人もいるかもしれない。

でも、あのとき一生分の楽しいことを一緒にした僕らなら、それぞれ僕たちらしくズルしたって真面目にだって生きてゆける気がする。