夜のなかばには神様にありがとう

 

昨日ライブがあった。

やっぱりライブは楽しい。
 
ライブがあって飲み会があってそのあと部室で意味なく朝を待つのが今までの当たり前だったけど、昨日は飲み会が終わった後にあっさりと帰った。
 
僕の先輩達は4年生になると飲み会の後にあっさりとかえってしまう人が多かったから、なんとなくそれに習ってみた。
 
数日前スピードワゴンの小沢がツイッターで「しめかたがわからない夜もっと増えますように」ってツイートしてたけど、僕が今まで飲み会の後、素直に帰らなかったのはきっとそういうことなんだと思う。
僕が帰った後に何か楽しいことがあったらどうしよう。
僕が帰った後に残ったメンバーの絆が深まっていたらどうしよう。
そんなことを思っていた。
 
でもそんなことは大抵なくて3時くらいになってやることも話すこともなくなって文字通り朝を待つ時間が訪れる。
それでも僕はあの時間が好きなんだ。
 
僕は大学生らしい行為に憧れを抱いている。
深夜の高速を飛ばして海を見に行くのも、麻雀しながら下品な話をするのも、後先考えずに女の子に溺れるのも、全部かっこいい。
飲み会の後に部室に残るのもその一つ。
 
ジョゼと虎と魚達っていう映画で、妻夫木聡がセフレとセックスをした後に、大学の可愛い女の子とセックスできるかも知れないってすごく嬉しそうに話しているのが若者のすべてって感じがしてとても眩しかった。
 
でも昨日帰ったことはぜんぜん後悔していないくて、むしろ帰ってよかったとも思ってる。
 
きっと僕は少しづつ臆病になったんだと思う。
夜通しクラブでむちゃくちゃに踊るのが怖くなったし、二件目の居酒屋では財布の中身ばかり気にするようになったし、写真に写る時にイキった顔をするのを躊躇うようになった。
 
tofunaetsの水星の歌詞にこんなフレーズがある。
 
君がまだ知らぬ夜があり
僕がまだ知らぬ朝がある
 
僕は夜について十分学んだみたいで、これからは朝起きて静かな気持ちで君を思うような時間を大事にしていけたらなぁって思う。
 
最後にワンダフルボーイズの夜のベイビーって曲の歌詞を載せる。
 
 I wanna be a boy イケてなかったあの頃の僕は looking for you 探してたのさこの夜を
 
それでもやっぱり俺まだ夜好きだよ
 

おやすみプンプンで神様が言っていた《寂しさ》について

先日、元カノに貸していたおやすみプンプンが帰ってきたので10時間くらいかけて一気読みした。
相変わらず凄い漫画だ。
読むのは2回目で大体一年ぶりくらいなんだけど、初めて読んだ時よりいろんな意味で圧倒された。
僕がこの1年でバカみたいに本を読みまくったせいで何となくこういった作品をまともに読めるようになったからだと思う。
まぁマンガの素晴らしさを書きたいわけじゃないから前置きはこれくらいにして本題に入る。
 
2巻の中盤くらいで神様のセリフにこんなものがある、
 
「人が人として生きている以上、絶対に埋められない寂しさがあるよね、」
 
僕はこのセリフを初めて読んだ時にものすごい衝撃を受けた。
この言葉に影響を受けまくった大学生活を送っていると言っても過言ではない。
 
神様はこう続ける
「人がどれだけ求め合っても傷つけ合っても、完全にわかり合えないのだとしたら、一体何を信じてゆけばいいのだろう?なんてね」
 
神様の言う寂しさの正体とは、人と人がわかり合うことの困難だ。
この寂しさを以後《寂しさ》と表記する。
 
ところで野口あや子の短歌に次のようなものがある。
 
私には私の心臓しかなくて駆ければ不作法に鳴るさみしさよ  
 
僕はこの短歌はまさしく《寂しさ》について書かれたものだと思う。
私には私の心臓しかなくて、、
つまり私が理解できるのは私のことだけ、この気だるさも、このウキウキも、このセンチメンタルも全ては私専用のものであって決して誰かが共感できるものではない。
なぜなら僕がどれだけあなたを観察しても、どれだけあなたの言葉を集めても、どれだけあなたの感触を確かめても、それは単なるあなたのアウトプットにしか過ぎないのだ。
たとえ仮にあなたの心を100%完璧に表す言語でそれを僕に告げようと、それはあなたの口、空気、僕の耳を媒介してしまう。
それはもうあなたの心とは別物だろう。
 
ここで言う、あなたとは不特定多数の自分ではない人間のことだ。
 
駆ければ無作法に鳴るさみしさよ、、
そして野口あや子は《寂しさ》からさらに発展する。自分自身の心さえ自由にすることは出来ない身も蓋も無い境地に達するがそこは置いておこう。
 
つまり何が言いたいかと言うと、《寂しさ》ってマジでどうしようないって言うこと。
じゃあいったい何を信じていけばいいんだろなんて考えちゃダメなんだと思う。
だってどうしようもないんだから。
 
でもこの1年でたくさんの本、映画、音楽に触れてきて気付くけど、意外とこの《寂しさ》について書かれた作品は多い。
本当にいろんな作品でいろんな人間が言葉を変えストーリーを変えメロディーを変えて表現している。
みんな《寂しさ》を抱えているんだよ。
 
僕はそんな作品が大好きだ。
とにかくいろんな人の《寂しさ》を読んだり観たり聞いたりしてればそのうちなんかわかる気がするから。
だってどうしようもない《寂しさ》は消すことが出来なくても、紛らわすことなら出来るかもしれないから。
 
っていう心にもない綺麗事でそろそろ終わろうと思う。
 
最後に海援隊の『人として』っていう曲の歌詞を抜粋。

思いのままに生きられず 心に石の礫なげて
自分を苦しめた 愚かさに気付く
私は悲しみ繰り返す そうだ人なんだ
人として人と出会い 人として人に迷い
人として人に傷つき 人として人と別れて
それでも人しか 愛せない
 
神様が言った「人が人として」って部分は難し過ぎて正直よくわかんないけどさ、この曲みたいにもしかしたら《寂しさ》を抱えていることが人が人であるための必要条件の一つなのかなぁ。
 

ブログはじめます

 

最近1人の時間がすごく増えてきている。

僕の大好きな作家の1人である中島らもが『牢屋で痩せるダイエット』というエッセイで言っていたけど、彼曰く教養とは1人で時間を潰せる能力のことらしい。

 

そろそろ僕は暇だから暇してる奴らを集めて酒を飲むといういかにも大学生的な行為から脱却しようと思っている。

大学生になって4年目で酒自体に飽きてきたってのもあるけど、なにより教養のある人間でいたいと思った。

僕は本と映画と音楽が好きで1人の時はもっぱらそのどれかで遊んでるいるわけだけど、それって厳密な意味で1人で時間を潰しているわけでわない。

ただ暇を潰しているだけだ。

中島らもは独房の中で詩を書いたり自分の肉体と向き合ってみたり宗教のメカニズムについて考えてみたり本当の意味で1人で時間をつぶしていた。

 

僕は別に入獄する予定なんてないんだけどさ。

生まれて22年経って今までたくさんの場所、たくさんの作品、たくさんの人に出会った。

それだけの材料があればなんとかなる気がする。

別に中島らもの真似をしなきゃいけない理由もないし、今の自分を否定する必要なんてないんだけど、ただ僕がそうしたいと思った。

 

まあ、ここまではブログを始める理由を適当に今考えて書いてるだけなんだけでぜんぶ嘘なんだけど。

本当のことを言うと友達のブログに感化されて自分もやってみたくなっちゃったてだけなんだ。

 

そんな軽い気持ちで始める僕だけど一応こんなものを書きたいっていうイメージがあって、

22歳になってから社会に出るまでの自分がいったい何を考えて過ごしているのかを書きたい。

 

青春といえばやっぱり高校生のイメージが強いと思う。

でも僕はオレンジデイズだったりハチミツとクローバーだったり今ぼくが立たされているこの期間も紛れも無い青春だって言い張りたい。

社会人になってからは青春なんて言葉絶対に使わないから、この1年だけは思いっきり使わせてほしい。

高校生の楽しかった思い出は永遠に胸の中に残り続けると思う。

でもこの1年間ってそんなときめくこともないだろうし、10代の頃のようなセンチメンタルに襲われることももうないだろうし、なんだか過ぎ去っていく月日を見守るような1年になってしまいそうなんだ。

 

だから僕は文章にしたいと思った。

僕の青春のエンドロールは最高だったよって印を残したい。

 

僕はわりかし承認欲求の強いタイプだからこんな誰も読まないブログでも格好つけていく。

最近知った単語をアピール的に意味なくバンバン使っていくと思う。

昨日の夜書いたラブレターを今日の朝読み返すような気持ちになりたいのだ。

 

ではブログはじめます。